コラム

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19円ずつ

 消費税施行より10年、議論され続けてきた問題がある。「小分けにして買うべきか否か」すなわち「小分け問題」である。この問題の一般解はいまだに発見されていないが、小分けにして買うべき状況が存在することは容易に証明できる。具体的な数字を仮定して計算してみよう。ただし労働機会獲得コスト、店舗選択コスト等の効果は無視することとする。

 消費税端数切り捨ての店舗において、商品の単価を19円、購入手続に要する時間を2秒とする。この商品を1800個小分けに購入した場合、節約できる金額は(1800×19×1.05)−(1800×19)=1710円。所要時間の差は1800−2=1798秒。よって時間あたりの節約金額は1710÷1798×1800=1712円となり、よって小分けにして買うべき状況は存在する。//Q.E.D.

 なお同様の計算によるならば、時給1000円の購入者は価格の下2桁が12〜19、32〜39、52〜59、72〜79、92〜99の場合に、商品を小分けに買うべきである。

ウテナとゾンダーメタル

 ウテナとガオガイガーについての紹介は省略。なぜというに、簡単な紹介なんて誰かがやっているであろうから。まあこのへんZr少女革命ウテナで。

 少女革命ウテナで面白いのは、身内で戦っているということである。
 ウテナでは一話一決闘が基本パターンである。一話ごとに戦いがあるというのは、仮面ライダーや勇者シリーズなどさまざまなジャンルでみられる形式だが、そのなかでも違いがあって、まずウルトラマン系の怪獣のようにそうとう異質な敵が襲ってきてそれを主人公側が倒す、というパターン。つぎに敵の側の描写も豊かで、たとえば悪の組織のボスと部下のやりとりが描かれていて、それと主人公側が戦う、というパターン。そして、敵が一般人の悪の心につけこんでそれを操り、巨大化させて主人公側と戦わせるというパターン、などである。
 一話一戦式のジャンルでは、人類を守るために戦う主人公側のドラマだけでもいいのだが、やがて悪のドラマも描かれるようになる。主人公側のドラマの回では悪は簡単な悪であり、主人公側のドラマの障害・ハードル・当て馬・サンドバッグである。この場合は、敵は唐突に登場し背後関係のない怪獣でよろしい。
 だが、悪のドラマの回では、敵の側のやりとりや作戦、あるいは一般人がどう悪に篭絡されて主人公に戦いを挑み、打ち破られるかが本筋なので、敵は簡単な怪獣ではいけない。悪の博士に操られている怪獣、へまばかりするコミックリリーフの怪人、ゾンダー化する一般人など、人間に近いほど・人格があるほど、ドラマが描きやすくなる。
 怪獣、悪の組織の怪人、つけこまれた一般人、という系列は、つまり一話一戦式のジャンルでドラマの焦点になるのが主人公側か、悪か、という系列でもあるわけだ。
 そしてそれは敵が、人類とは異質な生物である怪獣、怪獣−人類のハイブリッドである怪人、人間だが一話使い捨て(最終回でもう一度だけ出るが)の一般人、という順番で、主人公側に近づいてくる系列でもある。
 その系列を延長していけば、サブレギュラーが洗脳されたり、レギュラーが暗黒面にひきこまれたりするということになる。

 さて、ウテナが面白いのはここだ。ウテナの決闘相手は最低でもサブレギュラーであり、ほとんどがレギュラーで、いってみれば全員が主人公側の集団のメンバーである。宇宙からやってきた怪獣や怪人はおろか、一話使い捨てキャラクターすらいない。ぎりぎり、香苗さんと瑠果が登場即決闘しているくらいである。黒薔薇編や鳳暁生編には悪の勧誘アイテムを使う悪のボスが出てくるが、彼らも主人公側の集団の外にいるわけではない。
 これは、学校という閉じた世界の内部だけで話が進んでいく、というウテナの話の構造と関係がある。学校という集団は比較的に、その外側になにかを必要としない。軍隊は敵と戦うために、会社は金を稼ぐためにあるわけで、学校のようにその外にあるなにかに対処することをあまり考えない集団は少ない。まあ、受験というものもあるが、学校が閉じた世界だというのはそういう意味である。学校だから、ゾンダーが宇宙から攻めてくるのを軍事組織GGGが倒す、という構造ではなくて、全員が一つの集団をつくっていて、その内部のレギュラー間で決闘をする構造ができる、ともいえるだろう。

 ではここで、ウテナものと呼べるジャンルができるとして、その要素についてまとめてみよう。

  1. 一話一決闘。
  2. 決闘相手は人間で、それもサブレギュラー、またはレギュラー。
  3. 全員が一つの集団に属している。集団Aと集団Bの対立や、集団外からの攻撃などはない。
  4. 悪の勧誘アイテムを使う悪のボスが登場してもよいが、それに対して他のメンバーが結託して戦ってはいけない。たとえば主人公に負けて洗脳の解けたキャラクターが、主人公とともに悪のボスに挑むなど。5人とかのチームを組むのも禁止。
  5. 悪の勧誘アイテムによる決闘はなかったことになる、というか、不問に付されるというか、あまり根にもたれない。
 あとはやはり、変だということだろうか。しかし変な格好良さというものは繰り返しによって変な格好良さになっていくものだ。同じだが。つまり繰り返せば大丈夫だと言いたい。いやむしろ変はいいことだ。
 ウテナものに栄光あれ。

ワイズシャットアイド

 アイズワイドシャット、見てきました。で、あらすじ。
 けっこういい感じにくらしているエリート医者と妻。と子(7才)。ところがある日マリファナでちょいとラリった奥さんが「あなたは私を信じてるそうだけど、私は私が信じられねー」と昔の話をする。そこで夫の人もじゃあひとつ、俺も人生の落とし穴を踏んでみようかな、などと考えだす。しかし彼が浅いつもりで踏んでいたのは、実はどれもこれもかなり深い落とし穴だった! そうとは知らぬまま持ち前の幸運でそれらをかわし続ける夫の人! あぶない! そこだ! 後ろだ! 早く逃げて!
 いやよけたよけた! あぶないところだった! ラッキー!
 そんな感じ。
 そんな感じなわけで、

そこにあるのは、見てはいけない愛。天才監督キューブリックが眠っている欲望をつきつける---

観客は、みずからの奥底に眠る欲望と妄想を見せつけられ、セックスの深淵を覗かされることになる。

映画を見ることによって、自分の奥に眠っている何かが暴かれ、犯される---「アイズ ワイド シャット」の観客が否応なしにさらされるのは、そんな体験だ。
コロナワールド
より引用

ってのはどうかな、いやかなり違うのでは?
 で、はたと思ったんですが、キューブリックぐらいたくさん映画を作ってると、こういう宣伝の煽り文句にどんないいかげんなコピーが書いてあっても来る奴は来る。問題は来ない奴だ。コピー次第で見に来たり来なかったりする客を来させるのがコピーの役目であって、だから宣伝の煽り文句というのは映画の内容と積極的に矛盾していてよい。フィルム自体で掬い取れない客を掬い取るのが宣伝の仕事なのだ。
 とか。
 ちなみにアイズワイドシャットの宣伝ってこんなかんじ。ご覧になったあなた、どうでしたか?

 と、ここまで書いて思ったのだけれど、この映画って一連の宣伝文句の猟奇的ノリで進んでいった話をどう終わらせるんだ? という観客の疑問を最後にひょいっと日常に着地させて落として、その落ちから考えなおすとそれまでの話がぜんぜん違ってみえる、という話だったのだろうか。つまり夫の人の遭遇することがら、特に屋敷の事件がどうなるのか? ということに観客は注目して、夫の人もそれに拘泥していくのだが、最後の場面の奥さんはそういった夫の人の体験を人生のエアポケット、ときおり訪れる逢魔が刻、交通事故未遂あつかいしてあっさりばっさり片づけてしまう。
 ここが面白いわけで、夫の人と奥さんにとっては映画が始まるまでの人生と映画が終わってからの人生の方が本筋であって、映画に映った部分は脇道というか他人事というか外側の話だったという落ちだ。夫の人がのめり込む事件は、実は大した事・そんなに気に病む事ではなかった、という、価値観の転回である。奥さんは少々ラリって変なことを言ったけれど、あくまで本筋のほうに立っていて、毒気にあてられてふらふらしていた夫の人を引き戻す。
 あなた、しっかりなさいよ。わたしたちは映画を観ている連中のために生きているわけじゃないのよ。そんなドラマチックで劇的なエピソードは、わたしたちにとっては余談なのよ。
 うーんやっぱり変な映画だ。それともこういった話ってもう結構あるのか?

人それぞれだと思います

 さて、掲示板には「この人とは話がかみあわないだろうなあ」という投稿があるものですが、ない人には救世主になってほしいものですが、そんな投稿の典型的なやつ2つの話をしましょう。
 まあ、相手から見れば私が話の通じないやつということになるのですがね。
 だからあなたに、私の視点に同意しろ、というつもりは、あからさまには、ありませんよ。
 あと勢い的にかなり悪口調になってしまっています。失礼します。
 えーと。
 まずはこれだ! 謎の投稿ナンバーワン!

人それぞれだと思います。

 うわー、理解できん!
 この言葉の意味はなんだ? 矛盾してるよね? どんな結論をも導けますよね? 自分の意見を他者に公表する手段であるところの掲示板で、意見表明という行為を否定するこの投稿の意図は? コミュニケーションの無意味性を信じて全世界の掲示板およびメーリングリストの根絶をはかる情報テロリストですか? 断絶され孤立した自己が互いにつながることなく一つ一つの殻の中で完結し他者にその中身をさらすことのない静的な世界を目指していますか? あらゆる主義主張は相対化され存在しうるすべての意見が同等の価値をもつゆえにタイプライターを打つ千万匹の猿の千万行の言葉すべてが同等でありいかなる言明もホワイトノイズの彼方に埋没して語ることに意味の失われた強い相対主義ですか? 人様に聞いてもらうほどの考えはないけれど投稿はできるよという、外部メッセージのみを有する情報ですか? 私はその問題について語るべき意見をもたないがそれでもなおかつここに存在しているという自己存在の外世界に対する表明ですか?
 まあ、わかってんだけどね。ふ。つまり私はあなたの意見に納得できません、ということでござろう? あなたの議論はどうも面白くありませんな、ということであらせられよう?
 ならどのへんが納得できないのか、議論のどこがどう怪しいのかという指摘をしてくれると建設的だと思います。人それぞれって言われたってどう返答していいものやら困ります。
 さて次! 謎の投稿ナンバーツー!

作ってみろ。

 なんですかそれは!
 意見の数だけ作品が必要ですか? 作品とそれを語る言葉が同列にされますか? 作品とそれを語る言葉は同じ形式をもたなければなりませんか? 全ての評論は地に落ちますか? 読書感想文はありえず、創作のみが存在できますか? ニフティの会議室はすべて一定水準以上の作品の制作に関わった人間だけが審議のうえ参加する権利を与えられるパティオとなり会員数は4桁落ちますか? 作品Aを語る資格を得るためにつくった作品Bを語る資格を得るためにつくった作品Cを語る資格を得るためにつくった……作品n(n→無限)によって無数の作品を生み出しその分野をすたれることのない永久作品産出機関と化しますか?
 ま、わかってるんですよ。ええ。そんなに語るエネルギーがあったら、それを作るエネルギーにまわして、作品を一つ作ってくれた方が面白いかもしれない。とおっしゃりたい。それは、同意します。特に感情に任せた悪口ってのは今一つ毒になって薬にならない傾向がありますから、それなら感情を作るエネルギーに変換してアンチテーゼ的作品を見せてもらった方が盛り上がる。
 でもやっぱり、そうならそうと具体的に指摘してもらわないと。

 つまりですな。「人それぞれ」とか「作ってみろ」とかいうのは相当深読みすれば意味がわかるんだけど、字義どおり受け取ると論理矛盾を引き起こしてあらゆる結論が導き出され返答不能になるか議論がまとはずれに紛糾するかの2択になるんですな。
 だいたいどちらも例の必要条件・十分条件の轍にはまっている。必要条件・十分条件の轍とは私が今勝手に思いついた言葉なので例のという形容は変ですが自分の中ではけっこう前から考えてきたことだからいいのです。十分条件のほうが必要条件より広くて、必要条件はすっぽりと十分条件に含まれているという、高校の数学でやったあれです。
 この場合、自分が気に食わない意見に対して突っ込みをするわけですが、その気に食わない意見に対して当てはまる突っ込み、すなわち「人それぞれ」とか「作ってみろ」とか「あなたの意見のこことここはおかしい」のうち、その意見に対してだけ当てはまる突っ込み、すなわち「あなたの意見のこことここはおかしい」をしなければならないのです。
 「人それぞれ」や「作ってみろ」は、確かに気に食わない意見に対して当てはまるのですが、気に食う意見に対しても当てはまってしまいます。すべての意見に対して当てはまってしまうわけです。そこから論理矛盾が生じて厄介なことになるわけです。
 まあそういうわけでね。なわけ。というわけ。ってわけ。ごきげんよう。さようなら。

もちろんって言うな!

 「もちろん」って、どうもペテン師じみて信用できない言葉だと思いませんか?

ついに書院でカラーコピーまでできるようになりました。等倍コピーはもちろん、拡大・縮小コピーや写真・文字のモード設定も可能。もちろん、モノクロコピーもOK。用紙カセットから自動的に給紙できるので
(SHARPの製品紹介のページ書院 WD-M500より引用)

などというのはいいんですが、

西欧近代の自由主義的政治体制か、古代ギリシャの自由市民の討論なのか、それとも科学者集団における議論なのか。もちろん彼の「開かれた社会」は、一つの理念であるから、特定の現実的なものに対応させる必要は必ずしもないかもしれない。しかし
ポパーと「開かれた社会」の理念より引用)

なんていう「もちろん」は、うさんくさくてしょうがない。
 ・「開かれた社会」は、一つの理念なのか?
 ・一つの理念という言葉はどういう意味か? どう定義されているのか?
 ・一つの理念は特定の現実的なものに対応させる必要が必ずしもないかもしれない、ということがなぜ言えるのか?
 これらの問題をいちいちフォローしながら文章を書くのは面倒くさいし読みづらいからしなくていいけれど、それらの問題が存在しないように装い、それを読者に押しつけるのはやめたほうがいいと、私は思うんですよ。

 だが、人が生み出す論理がどの程度のものか、どれだけ欠陥だらけか、先に例を挙げた流行の思想の歴史を調べてみればわかる。
 もちろん、世の中を変える必要がないとか、流行している思想がすべて悪い、と言っているわけではない。それはまた別の議論である。ただ、思想や論理を受け入れるのは

流行の思想より引用)

 とかね。
 この話が、世の中を変える必要があるかないかという話や流行している思想がすべて悪いか否かという話とは別の議論だ、ということに、いつのまになったのか?
 そんな合意がいつのまに、著者と読者との間にできあがったというのか?

 もちろん、というのは、明らかなこと、明白なこと、それについて著者と未知の読者とがまず合意できるとわかっていることについて使うべき言葉です。
 自分の議論を読者にむりやり納得させるために使う言葉ではない。
 もちろん、という言葉を省けばずっといさぎよくなる文章が、世の中にはたくさんあると思います。

 とか書かないに続きます。

物語のパウワァ

 人間てけっこう、何かを選択するときに、
「どうしようか」
「○○(TV番組の主人公)はこうしてたじゃん」
「じゃ、そうするか」
みたいな決め方をしていますよね。
 小は夕食のメニューから、大は生き死にまで。
 物語の主人公がそうしていたから、というぐらいの意識で。
 まねをするのがおもしろい、ぐらいの意識で。
 自分と自分の世界にとってそれがどういう効果を及ぼすかはもちろん、その主人公がどういう理由でそうしたのか、とか、その物語の作者がどういうつもりで主人公をそう動かしたのか、とかも考えないで。
 なんとなく。
 それでいいんだ、なんて感じたりする。
 不合理に納得する。

 物語って日々、そういう非常に軽い意識を通して人間の実際の行動に、そしてこの世界に力をおよぼしてるんだろうなあ。
 宗教の聖人とか道徳の説話とかは、あからさまに人間の行動に影響しようとしていることがわかるし、たいがいの人はそれを意識しているだろうけれど。

今夜、すべての本屋で


「今夜、すべてのバーで」 中島らも 講談社文庫Y533 ISBN4-06-185627-8

●伊藤式活字依存症スクリーニング・テスト(IRST)

最近六ヵ月の間に次のようなことがありましたか。
  1. トイレに行くとき、まず読む本をさがす。すぐみつからなかった場合にも、我慢してさがし続ける。
      よくある。(1.2)
      ときどきある。(0)
      めったにない・ない。(-0.3)
  2. 雨の日は嫌いだ。歩きながら本が読めないから。または、電灯の少ない道は嫌いだ。夜、歩きながら本が読めないから。
      あてはまる。(0.6)
      あてはまらない。(-0.1)
  3. 入浴時、本を読みながら体を、または頭を、洗えないか試す。
      よくある。(1.0)
      ときどきある。(0.4)
      めったにない・ない。(-0.3)
  4. 本が読みたいとき近くになかったら、新聞の折り込みチラシやパンフレットなど、直接興味がないものでも読む。
      よくある。(0.4)
      ときどきある。(0)
      めったにない・ない。(-0.2)
  5. 家を出るときなど移動するとき常に、どの本を持って行こうかということを考える。
      あてはまる。(0.7)
      あてはまらない。(-0.2)
  6. 自転車に乗りながら本が読めないか試す。
      よくある。(0.6)
      ときどきある。(0)
      めったにない・ない(-0.1)
  7. なにか行動するときに、まず数分本を読む。
      よくある。(1.2)
      ときどきある。(0.3)
      めったにない・ない(-0.2)
  8. 食事は、何を食べるかよりも、そのとき読む本はなにかということが重要である。
      あてはまる(0.5)
      あてはまらない(-0.1)
 判定方法
 総合点…判定(グループ名)
 2点以上…きわめて問題多い(重篤問題読書群)
 2〜0点…問題あり(問題読書群)
 0〜−5点…まあまあ正常(問題読書予備群)
 −5点以下…まったく正常(正常読書群)

 すると当然、「今夜、すべてのWebで」ということになろうか。

 人間はそれでいいのではないか。名前すらなく、読んで読んで読みまくったあげく目詰まりのした「活字濾過機」として、よく燃えて骨も残さない、きれいさっぱりとした「具体」であって、何がいけないのか。どうして人は活字中毒であってはいけないのか。えらそうな「人間」でなくてはならないのか。

掲示板の密林から

 いや、まいったまいった。
 私は今、タクティクスオウガについて調べてるんですけどね。
 攻略本も買いました。実際にプレイしてデータもとりました。Webもかなり読んでます。
 しかしこのWebが問題なんですよ。
 Webには情報があります。深い情報がたくさんあります。私もそういった先人達の仕事になにがしか付け加えたいと思っています。
 しかし、それらは遠く散らばっている。分散しているのです。
 そのため、情報の入手には非常な手間がかかります。そしてそれらの情報は、体系化されていません。
 また、Webの情報はかなりのものが掲示板にあります。
 掲示板への投稿にはわずかな労力しかかからず、また多くの人間に読んでもらうことができる。掲示板の隆盛は必然のものといえます。
 しかし掲示板には、多くの、非常に多くの、コミュニケーションそれ自体を目的にした情報があるのです。
 コミュニケーションそれ自体を目的にした情報、それはつまり、あいさつです。よろしくお願いします。
 相手とコミュニケーションするのはいいことです。知り合いをつくり親交を深めることはそれ自体楽しいことですし、そうして作られた集団はいろいろな成果を生み出すことができます。私も友人の少ない人間ですから、そんな集団に入れたらいいなあとか思っています。
 しかし、あいさつには内容がない。タクティクスオウガに関して意味のある情報ではないのです。
 掲示板にあいさつ的投稿が増えるほど、タクティクスオウガに関する情報を見つけ出すのは難しくなります。
 そして、情報は掲示板の過去ログの中に埋没していってしまうのです。
 ほとんどの掲示板が、将来の再利用を考えない形式をとっているのも困ります。たいがいの掲示板には「次のページを見る」「ホームに戻る」程度のジャンプ機能しかなく、表示投稿数の変更やジャンプ先ページの指定のできるものはまれで、検索機能を備えるものはほとんどありません。
 Webを、有用な情報を手に入れるところ、と考えるならば、
  (有用な情報)/((有用な情報)+(あいさつ情報))×(情報検索の効率)−(Web以外の手段で情報を手に入れるのにかかる労力)
が正でなくてはならない。これが負になると、たとえその情報がWeb上にすでに書かれていたとしても、自分で調べなくてはいけないということになります。
 だれかがとっくの昔に気がついて掲示板に書き込んだことを、私がまた再発見しなければならないとは!
 馬鹿らしい。
 有用な情報は集中し、体系化されてこそ、その価値を生むはずです。
 そしてHTMLはそれを可能にする形式だったはずです。
 掲示板文化を否定せず、その中に生きその巨大なエネルギーを生かして、体系化された情報を得るには……どうしたものでしょうね。
 「タクティクスオウガ基本情報」をまとめたニフティ特設会議室を見習うのか。オープンソースイニシアチブか。
 そんな力量ないよなあ。

視界の端で動く

 みなさんは、視界の端の方でなにか動くものがあったときに、まず最初どう思いますか。
 私は、「あっ、猫だ!」と思います。
 これは反射的な、まだそのものの外見が認識されていない、動きだけが認識されている時点での反応です。
 その直後、正確な認識がなされ、「なんだ、風に吹かれたコンビニのビニール袋だ」とか、「ただの黒っぽい石だ」となります。
 外見がまだ認識されていない最初の一瞬、とりあえず割り振られる「仮の外見」に、私の場合猫が入っているようです。
 兎なんかだと仮の外見は狐で、「なにか動いたぞ、狐だ! ……なんだ、枯れ葉だ」とか思ってるんだろうなあ。

あ、それ知ってる。どこで読んだんだっけな……

 ということ、ありますよね。この現象は人間の記憶システムの偏向に原因があるのです。人間は、あるデータのデータ内容そのものは結構ちゃんと記憶するのですが、そのデータをどこで入手したかというデータアドレスは忘れやすいのです。まあ、半径10km以内に文字が100個なかった1000年前ならそれでよかったのかもしれませんが、情報の海に溺死者続出中の現代では、自分の内部に持っておけるデータの量など、自分の外部にあるデータの量に比べればきわめて小さい。つまり今や引用こそ正解なのです。データの内容をいちいちおぼえているよりも、そのデータがどの本に、どこのサイトに書いてあったかをおぼえていた方がよいのです。
 いい加減な理屈だけど、どうかな?

 このサイト内のコンテンツはすべて不完全であり、常に改善し更新していかなければならないので、この文章は絶対に更新されない。

全角か? 半角か!? That’s a problem.

 たとえば1行目でこう書いて。
 そして2行目はこうして。
 その次の 3 行目はこうやって。
 そして!
 さらに!!
 こんなだったら!!?
 1999年は間抜けだが7月はいいのか!?
 A地点と A 地点とA地点と A 地点、どれが正解だ!
 (1999.7.12)なのか(1999.7.12)なのか微妙だけどどっちだ !!
 同じtext内に混在していたら嫌だが、同じ site 内にはあっていいのか ?
 ああ、どうしたらいいんだ!!!!!!

晩婚化がロリコンを生むのか?

 思い付いただけで根拠もなにもないですので、法螺話と思ってお聞きください。空理空論力。
 現在の日本の社会で普通の人が結婚して子供をつくるのって、性的に成熟してからずっと後じゃないですか。
 1万年前なら子供をつくって育てているような歳に、やっと嫁さんをもらうわけですよね。
 つまり今の20歳の男の子って、昔なら子供を育ててる歳なんです。よ。
 だから、ロリコンって、「俺の娘は可愛いなあ。がんばって育てよう」という子育て衝動と、「嫁さんほしいなあ」という嫁探し衝動とが、ごっちゃになったものなんじゃないかなあ。
 あ、あと、そもそも今は、昔(1万年前とか)よりずっと晩婚化してるんだから、男も女も1万年前よりずっと歳を取った相手と結婚してるってことですよね。昔は15才で結婚してたのが、今は20才、とかなわけだ。だから性的嗜好が若い方にずれる傾向はもともとありそうだなあ。

注意:この話の効果が、観測できるほど強いかどうかは解りません。それから、この程度の話は専門の方々によって、すでに論じられているでしょう。

メタなやる気

 やれば面白いに違いないができない。やるべきなのにできない。ということありますよね。ある。ということにします。小は起きて布団から出ることから中はマッドビデオ編集のおっくうな楽しさ、大は受験勉強まで。ああ東大入ったらきっと面白い人間ばっかりで面白かったろうな畜生(劣等感)。
 そうした「やれば面白いに違いない、やるべきだ」という部分、メタなやる気が下層のだるさ嫌さに負けるから物事を実行できないわけですが、そこでメタなやる気を勝たせるために人間は自らに日課を課したり目標を定めたり図書館に行って勉強したりするんですね。きっと。たぶん。そういう解釈もできるね。

 あるいは一旦外界、自分を囲む環境を変え、その環境に自分を変えさせているともいえるか。人間は環境に影響されるが、その環境を選んだり変えたりできるわけだ。自分が交わって染まる色(集団)を何色にするか選ぶとも、自分を入れる箱(ノルマ、ポリシー)をつくるともいえる。

 メタなやる気を下層のだるさ嫌さに打ち勝たせ実現させる手段、手法を上手く使えれば「強い人」なのかしらん。

アナザー湯川


 セガのCM、湯川専務シリーズ(1998年放映)は面白かった。
 ああいった展開の最終回としてはこういうのを期待していたのですが、本物は幸せそうで無念。


ボクサーの格好をしてリングのコーナーに立つ湯川。
思い詰めた表情。マントを羽織っている。
周囲の歓声。
マントを脱がせながら(マントの土星マークが見える)背後からセコンドが小声で必死になにか語りかけている。
「いいか湯川、第1ラウンドは軽く打って、第2ラウンドまでは優勢……(第3ラウンドで逆転KOされるんだぞ)」
セコンドの声がフェードアウトし、湯川の回想シーンに。
暗いボクシングジムの事務所。
ソファーに座っている湯川、セコンド、マネージャー。
机を挟んで挑戦者のマネージャー。
セコンドと湯川のマネージャーは卑屈な笑みを浮かべている。対照的に挑戦者のマネージャーは優越感と軽蔑の混じった笑い。
セコンドとマネージャー達は何か話しているがその会話は聞こえない。湯川は下を向いて無言。
挑戦者のマネージャー、机の上を滑らせて何かを渡す仕草。
回想シーンにはずっと小さく歓声が聞こえていたが、それが突然大歓声となる。
はっと目を開け、回想からさめる湯川の顔。
その視線の先、向こうのコーナーには今若き挑戦者(ボクシング選手というより、背広の似合いそうなヤングエグゼクティブ風。体格は湯川よりいい)が登ってきて、観客に応えているところ。歓声はこの挑戦者に向けられたものだった。
マント(渦巻きのマーク)を脱ぎ捨てながら湯川(カメラ)に視線を向ける挑戦者。マネージャーと同じ笑み。
歓声「やっちまえ」「止めをさせ」
挑戦者を応援する大観衆。コマ送りすれば見つかるレベルで、その中に心配そうな表情の湯川の妻が座っている。手にはせがた三四郎の遺影。
セコンド「おい湯川、聞いてるのか……(湯川!)」ゴングが鳴る。へなちょこに腕を振り上げて突進していく湯川。
湯川「うおおおおおおお」
終わり。

「(笑)」について


 最近「(笑)」という記述をいろいろなところで見ます。これが頻繁に使われるようになったのはなぜなのか不思議でしたが、どうも「(笑)」は「私は自分を客観視して笑うことができる」ということを表現しているのではないかと思われます。
 あるレベルで話をしているのに、それより高いレベルで批判されることがあります。たとえば、アニメの登場人物の好き嫌いを顔がいいとかいや性格がかわいくないなどと話しているのに、所詮アニメなんだから、とまとめられてしまう等です。
 別にそういった意見が悪いというわけではなく、話題というものはそうやって展開していくものですが、こういった一段高いレベルからの突っ込みを先回りして封じる際に「(笑)」は活躍します。
 「俺達こうやって熱く語ってるけど、所詮はアニメにすぎないんだよね、笑えるよね」というふうに、自ら突っ込みをしておくことにより、他者からの突っ込みを防ぐことができるわけです。
 とても便利な「(笑)」、本日はこのミニ包丁と高枝切り鋏、6種類の吸い込み口と枕カバーがセットで付いて一万円、一万円のご奉仕です。まぁ卵がこんなにふっくら。

悪の秘密結社


 悪の秘密結社という概念は、小説、アニメ、特撮、陰謀系妄想その他さまざまな分野でよく見受けられる。実際にはあまり聞かないが物語では頻繁に使われる、記憶喪失や実は血の繋がっていなかった兄妹、密室殺人事件のようなものといえるだろう。
 悪の秘密結社の好まれる原因は何か。それは、この世の悪いこと全般を一手に引き受けて計画し、発生させている何者かがいる、という考え方が心地よいからではないだろうか。
 普通の人間一人々々が善意や無自覚や軽い気持ちでやっている行為が実は悪を生んでいるのではないか、などと考えだすと消化に大変わるい。
 この世の悪いことすべてを引き起こしている特定の集団、悪のプロフェッショナルが存在すると考えてよいのなら、どんなにか気が楽だろう。
 そうした「この世のすべての悪の原因」、悪の専売公社が、悪の秘密結社なのではないだろうか。
 こうした視点から、キリスト教の神を「善の専売公社」、悪魔を「悪の専売公社」ととらえることも可能かもしれない。
 また、偶然で不条理な不幸は一層不幸である。角にぶつけた足の小指は責めるべき相手がいないゆえにさらに痛い。異論もあるだろうが、不条理に不幸になるよりは悪意をもって害された方がまだましである。
 その意味で、世界征服なりなんなりの目的でもって生みだされた「秘密結社の悪」は、非常に理解しやすく好まれるのだろう。

 さてこのように悪と悪の秘密結社について考えてきたわけだが、つまりわれわれ人間は悪の原因を単一の擬人化された事柄に求めようとする傾向があるのではないかと言いたいわけである。
 悪を定義し、その原因を求め解決法を探ることに意味があると思う人はいるだろうし私もその一人だが、その際われわれ自身のこの傾向に注意する必要があるかもしれない。題名にそぐわないすごいまとめ方だが終わる。

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