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「指輪世界 - [時系列で並べてタグをつけた文章]」
1999/08 その3

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[熱気にあてられること。物語の歴史。レスポンス命。文体の唐突な変化が書き手の興味の転向を示す。初恋の相手は思い出の中で変化しない。(game)(rpg)]

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 久々にニフティの会議室をうろつく。FCGAMEM1の「家庭用ゲーム機一般」で、RPGと物語について盛り上がっていてよろしい。いわさき、masakaといった方々の文章がけっこう納得できる。
 触発されてゲームと物語について書く気になる。

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 物語の歴史。
 まず口伝ありき。狩猟民族とかの時代です。神話を口から耳へ耳から口へ、言葉によって世代ごとに受け渡していったわけです。
 やがて生産力が上がり、穀潰しを養うだけの余裕が大きくなると、大々的に、芸人の芝居などによっても物語は語られるようになりました。芝居は、物語を肉体と言葉と音楽によって、目と耳へ伝えます。
 文字と記録が発明されると、書いて読んで伝える物語もできます。が、語られるのは主に神話でした。
 活版印刷。書物が大量に作れるようになります。娯楽としての書物の誕生です。書物は物語の媒体として大きな役割を担うことになります。
 ラジオ。物語は口から、不特定多数の耳へ語られるようになります。
 映画。物語は、編集し保存した映像によって語ることができるようになります。やがてトーキーが、音を用いることを可能にします。
 テレビ。物語を語るための媒体としては、アクセスコストを極端に下げた映画、といっていいのではないでしょうか。映像と音。映画館まで行かないでも、座って菓子を食べながら連続ドラマを観られるのです。

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 ゲーム。いよいよ本題です。まず、物語とゲームとの特異な接点、テーブルトークRPG(以下TRPG)について書きましょう。TRPGはファンタジー物語の古典「指輪物語」をウォーゲームとして遊ぼうという試みから生まれたのですが、 プレイヤーが互いに物語を語る という非常にユニークなゲームに発展しました。
 TPRGは、物語を語る特権をプロからアマチュアへ譲った媒体でした。書物、ラジオ、映画、テレビでは、物語を語るのはプロで、語る対象は不特定多数でした。しかしTPRGでは、アマチュアであるゲームマスターが特定小人数のプレイヤーに物語を語るのです。そしてそれだけではありません。TRPGでは、プレイヤーもまた、物語を語るのです。その力はゲームマスターのそれよりは小さいですが、十分に大きいといえます。互いが物語の語り手であり聞き手である。これがTPRGの特異な性質でした。なお、TRPGでは、物語は言葉によって伝えられます。それからもう一つ、TRPGはウォーゲームにはなかった、戦闘-成長サイクルという要素を得ました。これは、ノンゼロサム性が高まり、ゲームバランスの崩壊がそれほど問題視されなくなったことと、特定のユニットを長期に渡って扱うようになったことによります。

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 さてTRPGに少し遅れつつ、コンピューターゲーム(以下CG)が登場します。
 初期のCGには物語を語るだけの容量がなく、その魅力はレスポンスのよさにありました。画面内のキャラクター達が、人間の体感時間に匹敵するスピードで入力に反応する。こんなものはそれまでありませんでした。まあ、せいぜいピンボールくらいでしょうか。そのピンボールだって、鉄球が重力による等加速度とフリッパーによる衝撃と障害物によってアクションしているだけでした。インベーダーがわさわさと動き、砲台が弾を撃ち、当たったインベーダーは消える。マリオがダッシュし、ジャンプし、ブロックを突き上げ、カメを踏む。こんな複雑なことをリアルタイムで処理するには、それまでは、実際に自分達の体を動かすしかなかったのです。CGの速いレスポンスは人々を虜にしました。
 コンピューターの容量は増え、やがて文字を表示できるようになりました。しかし解像度はそうそうよくなかったので、書物と同じような語りかたはできませんでした。描画能力もしょぼいのでアニメーション的な表現もできません。音楽はなんとか演奏できますが、声は出せません。キャラクターは動かせますが、やはり芝居のような演技を見せるだけの解像度も容量もありません。
 しかしCGには強力な武器がありました。戦闘-成長サイクルです。これはコンピューターが数値を管理し処理する能力に長けていたためにTRPGから受け継ぐことができた重要な武器で、人間の感情に強く訴えることができました。これに3D迷路のマッピング、そしてアイテムコレクションという要素を加えて成功したのが、ウィザードリィです。そして世界を2次元マップで描くだけの容量ができると、ウルティマ、そしてドラゴンクエストが生まれました。ドラゴンクエストは3D迷路とアイテムコレクションを省き、戦闘-成長サイクルに2次元マップ上での放浪、そして貴種流離型の物語を付け加えていました。
 さて、中略。それから歳月はそんなに流れていませんが、コンピューターの容量の進歩はめざましく増しました。

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 現在について書こう。
 現在のところ、(PCorコンシューマー)+ソフトの表現能力は、

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 これを総合するに、いまだ(PCorコンシューマー)+ソフトは書物、映画、アニメ等に単独では対抗できない。単独? そう、今は同盟者がいるのだ。それは人間の介入である。
 人間が介入することの意義は……

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 これらの魅力が衰えれば、(PCorコンシューマー)+ソフトは書物、映画、アニメ等に対抗できず、(PCorコンシューマー)+ソフトによって得られてきたコンピューターグラフィックスなどの技術はそれらに取り込まれ、ドット美術やゲーム音楽などは絶えることになるだろう。それを避けるには、人間が介入することの意義を生み続けなくてはならない。つまり、新しい人間の介入の仕方、ゲーム性を発明し続けなくてはならない。

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 注……ならない、と書いたが、善悪はつけがたい問題である。(PCorコンシューマー)+ソフトは変わり続けていく。ある一時点での(PCorコンシューマー)+ソフトが好きだったとしても、それは先に進んでいく。文化とはそういうものだ。われわれはある一時点での文化に惚れ込むが、それは変化していく。文化は各時点で連続はしているが、惚れ込んだ時点の文化というものはもはやない。思い返せるだけだ。(PCorコンシューマー)+ソフトもすでにたとえば、停滞はしない。だれでもクリアできるゲームばかりだ。私が惚れ込んだマッピングは今はない。やがて、人間の介入することの意義なしでも独り立ちできるようになるやもしれぬ。そうしたら、映画に近いものになるだろう。ただし違うところも多々ある。コンシューマー機とテレビモニターで再生できるCD-ROMに記録された6800円の30時間映画。個人が好きなときに見れる。あなたが望む(PCorコンシューマー)+ソフトはこれだろうか? それとも人間の介入は存続するべきだとお考えだろうか? 媒体が(PCorコンシューマー)+ソフトでなくなっても、人間の介入が存続すればよいだろうか? 人間の介入も、どんなものがお好みか?


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