_
真面目な後輩の恫喝「放っておくと捨てますよ」に屈し、105円/冊レートで研究室内に流入・散乱していた漫画本をダンボール箱に詰めて空き部屋に移す。足元のスペースが再生して膝が伸ばせるようになったのは結構だが、中川先生から貰った「はいからさんが通る」が発掘されてしまい、読まなきゃ。年末のスケジュールは忙しいのに、どこで半日あけたものだろう。
_
2001/12/19/01aの続き。
Piroさんの12月23日。
_
む、「再利用」の語義が違いますね。僕が11月16日に使った「再利用」とは、ソースに修正加筆をすることです。HTML文書をブラウザを使って読むことは、再利用ではなく、利用です。
以下11月16日の言い換え。
プログラムソースの利用と再利用:
↓書く by 作者
プログラム ─実行(利用)→ ユーザ
↓修正拡張(再利用) by 作者または不特定複数の誰か
プログラム ─実行(利用)→ ユーザ
↓書く by 作者
ソース ─読む(利用)→ ユーザ
↓修正加筆(再利用) by 作者
ソース ─読む(利用)→ ユーザ
_
質問、質問。
_
野嵜さんの闇黒日記の最新版の12月23日。たぶん年明けには12月Part6の12月23日になるのだと思うが、12月Part5の12月23日になるのかもしれない。
ある文法の汚いHTML文書があるとして、
_
いったん揃えるものを揃え、整えるものを整えれば、それ以後は楽々と正しい文書を作れるようになる。そうしておいてから正しい文書を大量生成すれば、初期投資を取り戻せる。それはそうですが、そこから出てくる結論は「正しい文法に従おう」ではなくて「たくさん書くなら、良い環境を揃えて書こう。そしたら、正しい文法に従うのも楽々さ」ではないでしょうか。
_
へぼオーサリングツールを捨て、マスタファイルとパーサとの環境に移行してペイするのって、テキスト何MBぶんからだろうか? 5MBくらいからかな?
_
今月の電撃大王のあずまんが大王の榊さんはイリオモテヤマネコを抱き転がりつつ、ちよちゃんがあらわれるや居住いを正した。これは、榊さんが意識的に演技をしているし、これまでもしていた、ということだろうか。榊さんは演技者だったのか。
と舟橋さんに電話したところ、氏も悩んでいた。榊さんは他人が自分を誤解していることに気づいていないか、あるいは戸惑っている、しかし偶然たまたま他人が榊さんを誤解するように物事が転がる、のだとこれまで舟橋さんは考えていたという。
演技者萌えか、誤解されている萌えか。榊さんの明日はどっちか。
_
雑誌巻末の読者投稿ページなどで、「下手な絵だな。だが、これは美女/美男なんだろうな」とわかる絵がある。美女/美男の記号というやつだ。また、絵のうまい漫画家で、「これは後備役の脇役だな。しかし、可愛いなあ」という娘っ子や小僧っ子がある。いや、もとい、申し訳ない、小僧っ子はあまりない。ともあれ。
一般に、萌える属性ということが言われる。だが、萌えない属性というものがあるだろうか? そばかすも眼鏡もかつて不美人の記号だったが、今や主要萌え属性のひとつとなっているではないか。
まず可愛くて萌える娘っ子があり、その娘っ子を他の娘っ子から分別する識別指標として、眼鏡やカチューシャといった属性があるのではないか? たぶん、これは言い過ぎだ。
萌えない属性はあるか、という問いは、かっこうわるい属性はあるか、という問いと対照できるかもしれない。かっこうわるいものはあるか? いや待てよ、萌える属性はあるか? かっこうよいものはあるか?
……いいから飯を食え。(メガネスキー)
_
ギャルゲーにおける好感度の推移をアップロードした。夏コミにゲー研で出した冊子の原稿で、PowerPointからHTMLに出力したものである。ソースを見るといろいろと素敵なことになってしまっているようなので、閉じて、見なかったことにした。
_
闇雲日記闇黒日記の12月28日。と29日。
なんと、野嵜さんはHTMLソースをテキストエディタで手打ちしているのですか。たしかに闇黒日記のソースは読み易いですが、直接書かれたものだったとは……ラジャー了解。
今、正しい文法に従ってHTML文書を書けているし、それが面倒でもない。フォントの色やサイズを頻繁にいじったユカイな文書を書くメリットを感じない。文法に則って書くのが難しいHTML文書を作りたいと思わない。そういう人にとっては、正しいHTML文書を書くのが自然ですな。
_
構造と見栄えの分離がどうのこうのという話題ですが、好きなネタなので一筆。
文書の構造と見栄えを分離するのが不可能、ではなくて、分離が不可能な文書を書くことができる、と言うべきですな。
道具は人間の能力を拡張していくわけでして、新しい道具ができたり、道具が改良されたりすると、人間の能力も拡張されます。表現手段も道具の一種で、それが改良されると、人間の表現できることも拡張されます。表現可能空間が広がるといってもいい。
日本語が表現できていたことを、HTMLが拡張した。フォントをいじったりしている人々は、その拡張された空間、(HTML+日本語)でしか表現できない空間bの一部を埋めているわけです。で、そこが埋まりきってしまったら、彼らは、僅かなマスターピースを残して、飽きられ、忘れ去られるでしょう。それは表現手段の改良とともに繰り返されてきた現象です。映画ならトーキーやカラーです。
無声映画の監督は、「トーキーは姑息だ。カッティングや演技演出が下手でも、声が出れば感情表現ができるんだからな」とぼやいたかもしれませんが、それは間抜けです*1。音声をも取り込んで、音声、カメラワーク、演技、演出、云々の総体としての映画制作の競争が、また始まるにすぎないのです。こうしたぼやきは特撮とCGとか、歌とレコードとか、さまざまな分野のさまざまな場面で起きる、ありふれた現象です。
問題は、可能性の問題ではなく、形式に對する價値判斷の問題なのであります。なるほど、そういう問題のようですね。僕はフォント弄り系のHTML文書に価値があると思っているので、そこらへんから争点が発生しているのかな。僕は先日28日に挙げたフォント弄り系サイトA_PROMPTが面白いし、そのHTML文書がフォントに大きく依存していて、フォントを平板にしたら面白くなくなると思っています。つまりここで現に、メソッドが巧みに使われていると思っています。
はスタージョンの法則による誤謬*1を犯しているような気がしますが、どうでしょう。印刷された紙葉を折帖にし、綴じあわせて表紙をつけ、書物としての形態を与える工芸的操作、すなわち製本の工程が装釘である。少し気どって、装幀と書いてみたところで、それ以外の意味が生まれてこないのは、装釘に相当するヨーロッパの書物語をしらべればすぐわかる。ところが今のわが国では、装の字におろかしくひきつけられるためか、たいていの出版者はもちろん、ひとかどのデザイナーで通用している連中までが、装釘の本質をとりちがえて、表紙や見返しの、さらには御苦労にもカバーや外箱の、図案的効果だとばかり思いこんでいる。だから、いつまでたっても工芸的にろくな本ができないのだ。
私はもう三十年近く、機会のあるたびに、口を酸っぱくしてこのことを言ってきたのだが、書物人の認識の改まった様子は一向にあらわれず、かんじんの背の綴じや、にかわづけは、すぐめりめりとくずれるくせに、表紙や見返しには、書物のイロハさえ知らぬ画家が、あらずもがなの絵をかき散らした本を、店頭におびただしく見かける。全くゆううつである。書物の正しい伝統の残るフランスでは、今でもなお、立派な紙に印刷された書物は、折帖のまま読者の手に渡って、家内工芸的な製本技術にゆだねられるという。わが国の出版者は、大いに心を改めて装釘の勉強をやり直す必要があろう。
_
全体が有機的に結合し、一体となり、組織が過不足なく装備され何一つ切り捨ても追加もできぬ、それぞれの要素がお互いに大きく依存しあっていてどれを欠いても成立しえぬ作品。それはいいものです。それは再利用性と互換性を欠きます。一方、ストーリー単体に非常な魅力があって、SFXやカメラワークや音響演出などは他のものでも代替可能な作品などというものもあって、それはそれでいいものです。これは、再利用性と互換性をもちます*2。
伊藤氏は「良い部分があるからフォント弄り系は良い」と主張するのだし、私は「駄目な部分があるからフォント弄り系は駄目だ」と主張してゐる。違います。良い<傍点>部分</傍点>があるから、ではないのです。文章とフォントとの相互依存するさまが良いのです。A_PROMPTの文章を平板に読んだらつまらないし、野嵜さんの文章や懐かしの中学国語教科書にA_PROMPT調のフォント装飾を施してもつまらないだろう。単体ではつまらないものどうしが、しかし一緒になると楽しくて面白いと、僕は思っているのです。ですからbは、HTML+日本語です。HTMLによる演出、ではありません。
_
落語の台詞をそのまま文章化したらおかしな日本語になるでしょう。落語を演じるのは、喋る文章の日本語が駄目だから口調や身振りや手振りを交えて価値を付与するため、ではありません。
_
実のところ、野嵜さんの文章はまさに野嵜さんの主張に沿って書かれています。
_
外箱の図案的効果に凝るのと、背綴じやにかわづけの強度が弱いのとには、必然的な関係があるのですか? ないと思います。
_
<傍点>ほんとうに</傍点>全体が有機的に結合し……どれを欠いても成立しえぬ作品、というのは、まず存在しないと思います。それは特定のスクリーンで特定の音響機器で特定の時刻に特定の人種性別の観客に……向かって上映されてこそ成立する映画、みたいなもので、極限を取ると「ある一人の人物にとって、その人の人生」とかになってしまいます。
ハムレットはかなり多くの要素が相互依存した傑作なのでしょうが、さしものシェイクスピア氏も演出を後世に残すことはできなかった、だからそこに互換性がある、ということだと思います。
_
SFXよりも純愛物語としてタイタニックには価値があるのではないのですか? つまり純愛物語というストーリーには、派手な演出に依存しない、独立した、再利用性と互換性のある価値があるのでは?
ん? 再利用性と互換性という言葉の語義が違いますね。僕は、たとえばタイタニックのストーリー要素がSFX要素から切り離されて、他の作品で使われたとしても成り立つとして、そのことを再利用性・互換性と呼びました。
台詞の一字一句も揺るがせず、カメラワークに1ミリのずれも許されない、カラーになったら台無し、ドルビーデジタルでないと駄目。そういう作品が、再利用性と互換性を欠く作品です。それ自体で完成してしまっているため、「ファンが熱狂してあげないと成立しないような危うさ」がなくて、ミーハー・アッパー・バカ系のファンがつかないような作品*1です。
_
「メディアミックス」というジャンルが「小説」「演劇」などと並列なものだと解釈してはいかがでしょう。小説と映画とラジオドラマと漫画とゲームとフィギュアと下敷とからなる一個の総体としてのメディアだと。とんち番長なみのとんちですが。
子供騙しをご立派なものだと言う、ですか。ふむ。
メール[管理人伊藤悠 / ITO Yu / FZR02073---a---t---nifty.ne.jp]
この日記は、GNSを使用して作成されています。