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闇黒日記の1月11日。
ふむ。それでは、僕が「A_promptは42年後にも名を残しているだろう」と主張したら、この議論は2044年まで保留されることになりますか? あるいは、
「フォント弄り系」のサイトが後世に名を殘す事は、絶對にない。というのは、後世の評価を待たずに今、言えるのですか。絶対、というのは、かなり強気な主張に思えますが……それはどんな理由からでしょう。
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agendaの1月9日。観念に過ぎない
、ですか。単に議論への献花にしてしまう
、むむ。
単なるセンサがうずく。「単なる観念」とはどんなものですか? 「単なる議論への献花」とはどんなものですか? 「単なる概念ではない」あるいは「単なる議論への献花ではない」ものには、何が付帯しているのですか? 真剣さですか? 現実との葛藤ですか?
という余談はともかく、「再利用」を2つの語義に使ってしまってますね、僕。たしかに、申し訳ない。すみませんでした。
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落語の文章は、平板な発音で読まれたら意味がとれなくなるので、おかしな日本語の文章です。
おききしますがね、外箱の図案的効果に凝ると背綴じやにかわづけの強度が弱くなる、と、一體誰が主張したのでせうか。誰も主張してゐませんね。お答えしますと、壽岳氏が
ところが今のわが国では、装の字におろかしくひきつけられるためか、たいていの出版者はもちろん、ひとかどのデザイナーで通用している連中までが、装釘の本質をとりちがえて、表紙や見返しの、さらには御苦労にもカバーや外箱の、図案的効果だとばかり思いこんでいる。だから、いつまでたっても工芸的にろくな本ができないのだ。と主張しておられます。また、野嵜さんが、
外箱の図案的効果に凝るデザイナは背綴じやにかわづけの強度を屡々考慮しない。と主張してらしてます。しかしこれ、なぜこんなすぐさま自分で答えを出してらっしゃるのか、不思議です。
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12月31日、僕の外箱の図案的効果に凝るのと、背綴じやにかわづけの強度が弱いのとには、必然的な関係があるのですか?
との質問に対して、野嵜さんが、
その兩者に必然的な關係が無いと書いています。
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抽象と具体、ですか。では、フクロネコを「三段論法的論理の形式」と置き換えたり、あるいは「色恋沙汰」を「女性の胸や尻や脚」に置き換えたりしましょう。
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得意げな顔
? ……なぜ、俺の表情がわかる。……はっ! 見られているのか? どこから、いつから?
そこに誰かいるのか!
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? 野嵜さんは、僕が「つまらない」と言いたいのだ、と断定するのですか? かつ、僕が野嵜さんを電波だと思っている、と思っているのですか?
絶対に思っていない、というのは、とても強気な主張ですね。なにかした時に、最初に見込んでいた地点ピタリに着地できるのは、そこまで届かなかった場合よりもずっと嬉しいと、僕は思っていますよ。届かない場合も多いですし。
電波というほどでもないですね。野嵜さんはずいぶんやる気があるな、攻撃的だな、と思います。僕は攻撃精神が尽きてきました。弱いぞ、戦え、銃を構えろ、腰抜けめ。貴様の始めた戦い*1だぞ! 「俺が?」なるほど、それはそうだ。
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