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2002/03/05 01へ続く。
以下、
茂内さんや高柳さんとした議論。
推理小説を、トリックに着目せず、登場人物の心理動向を追って読むことを「キャラ読み」というらしい。では、森博嗣の決め打ち世界観による描写にごろごろ転がりながら、トリックの解決解説部分も登場人物の心理描写も斜め読みすることは「地の文読み」とでも言うのかしらん
*1。地の文、萌え〜。
ま、それはおいといて(よっこらしょ)、推理小説といえばゲスト萌えである。犯人とか、被害者とか、証人とかいったゲストが変な人生観を持っていて開帳してくれて萌える。「諸君がわたしの名を呼ぶかぎり、わたしはどんな危機からも、どんな苦境からも、いかなる密室からも脱出してみせよう。なぜなら、それがわたしの名だからだ」ぎゃぁぁぁ〜森先生ぇぇ!!! 膝が笑います。
しかし、いくら素敵な人生観を持っていたとしても、そのゲストが人を殺したり、人に殺されたりしないかぎり、われわれはそれに触れることはない。コンクリ大好き人間も書道大好き人間もフィギュア大好き人間も、だれもが、だれからもまなざされず生きていて、つながらず、孤独である。そいつらが人を殺してはじめて、警察や被害者の家族や探偵や人々が寄ってきて、いかにして、誰が、なぜやったのかを問い始める。そして最後に解決篇となってやっと、犯人は自分の人生観を人々に聞いてもらうことができるのだ。人を殺してはじめて、主張を聞いてもらうことができる
*2。人生観を語るためには、諄々な手続きがなくてはならないらしい。
われわれは孤独だ。万人と共有できる価値は、命しかないのか。
* 2:
「こんな凶悪なことを、なぜ?」why done it式の引っ張り方は強力な技法であって、映画漫画にとどまらずワイドショーなんかでも応用されている。隠された人間性の発見という物語形態については
人格の成長と発見などを参照されたい。
ごく雑に言えば、われわれ人間は社会性について厳しい淘汰を受けて進化してきたし、社会性をきわめて複雑に発達させているので、他人の行動原理、心理、動機、を知ることに快楽をおぼえるようにできている。昔こいつはこういう経験をしてて、今こういう体験をしたところだから、こういう心理になってて、だからきっとこうするんだろうな、ホラそうした。という推論が、われわれは楽しくてしようがないのだ。
だからエンターテインメント作品において、人物の心理は単純にモデル化されている場合が多い
*3(稀少な客層にだけ理解できる心理描写をしてニッチな市場を狙う手も一応ある)。表現手段としては心理描写に踏み込みやすい小説メディアのほうが映像メディアよりも奇矯な人物心理が登場しやすい。だが因果関係構造の実操作による理解という面では
GPM的コンピューターゲームに発展の余地が見えないか?