bでも十分上にソートされるはず日記
2002/03 その1

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2002/03/02 (土)

[地の文読み。から話は逸れて、人物心理のモデル化と娯楽性。(book)(movie)(game)]

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2002/03/05 01へ続く。
 以下、茂内さんや高柳さんとした議論。
 推理小説を、トリックに着目せず、登場人物の心理動向を追って読むことを「キャラ読み」というらしい。では、森博嗣の決め打ち世界観による描写にごろごろ転がりながら、トリックの解決解説部分も登場人物の心理描写も斜め読みすることは「地の文読み」とでも言うのかしらん*1。地の文、萌え〜。
 ま、それはおいといて(よっこらしょ)、推理小説といえばゲスト萌えである。犯人とか、被害者とか、証人とかいったゲストが変な人生観を持っていて開帳してくれて萌える。「諸君がわたしの名を呼ぶかぎり、わたしはどんな危機からも、どんな苦境からも、いかなる密室からも脱出してみせよう。なぜなら、それがわたしの名だからだ」ぎゃぁぁぁ〜森先生ぇぇ!!! 膝が笑います。
 しかし、いくら素敵な人生観を持っていたとしても、そのゲストが人を殺したり、人に殺されたりしないかぎり、われわれはそれに触れることはない。コンクリ大好き人間も書道大好き人間もフィギュア大好き人間も、だれもが、だれからもまなざされず生きていて、つながらず、孤独である。そいつらが人を殺してはじめて、警察や被害者の家族や探偵や人々が寄ってきて、いかにして、誰が、なぜやったのかを問い始める。そして最後に解決篇となってやっと、犯人は自分の人生観を人々に聞いてもらうことができるのだ。人を殺してはじめて、主張を聞いてもらうことができる*2。人生観を語るためには、諄々な手続きがなくてはならないらしい。
 われわれは孤独だ。万人と共有できる価値は、命しかないのか。
* 1:
 トリック、人物、地の文、だけではなく他にもたくさんの着目面があろう。そのなかでどれが本質かって? 推理小説だけにあるのはトリックだが、それって他の表現手段と比較してはじめて言えることだから、トリック、人物、絵、などからなる表現手段(つまり推理ものの漫画)とかが出てくるともう、推理小説だけにあるとは言えなくなってしまうし……どこが本質か、だけを延々悩んでも面白い小話にはなりそうもないな。
* 2:
 「こんな凶悪なことを、なぜ?」why done it式の引っ張り方は強力な技法であって、映画漫画にとどまらずワイドショーなんかでも応用されている。隠された人間性の発見という物語形態については人格の成長と発見などを参照されたい。
 ごく雑に言えば、われわれ人間は社会性について厳しい淘汰を受けて進化してきたし、社会性をきわめて複雑に発達させているので、他人の行動原理、心理、動機、を知ることに快楽をおぼえるようにできている。昔こいつはこういう経験をしてて、今こういう体験をしたところだから、こういう心理になってて、だからきっとこうするんだろうな、ホラそうした。という推論が、われわれは楽しくてしようがないのだ。
 だからエンターテインメント作品において、人物の心理は単純にモデル化されている場合が多い*3(稀少な客層にだけ理解できる心理描写をしてニッチな市場を狙う手も一応ある)。表現手段としては心理描写に踏み込みやすい小説メディアのほうが映像メディアよりも奇矯な人物心理が登場しやすい。だが因果関係構造の実操作による理解という面ではGPM的コンピューターゲームに発展の余地が見えないか?
* 3:
 ギャルゲー的「能力値を上げる→らぶ」「何回も会う→らぶ」「ピンチを助ける→らぶ」「悩んでるところを励ます("お茶と同情")→らぶ」「らぶ→らぶ(シスプリ)」モデルを見よ。また、「臭すぎて爆笑」型キャラクターについて、海原雄山研究を見よ。

2002/03/05 (火)

[独白ファンタジー。命のちょうどよさ。(book)]

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2002/03/02 01からの続き。
2003/08/05 01へ続く。
2002/04/29/01aへ続く。
 森博嗣の地の文は、主に犀川による地の文と萌絵による地の文だが、例えば、
 人間は階段を順番には上らないのだ。いや、その階段、つまり歴史自体が、人類の作り出した幻のストーリィに他ならない。歴史とは、現代が作り、生み出し、そして、必ず、現代にだけ存在する概念だ。過去や将来に実体のあるものではない。
 人が死んだときには泣かなくてはいけない、悲しまなくてはいけない、と教育されているためかもしれない。おそらく、その割合が半分以上あるのではないだろうか。では、教育されなければ、人は泣かないものだろうか?
 花が枯れても、人は泣かない。花はまた咲くからか。いや、人間だってまた生まれる。
 失われるのは、躰ではない。死んだ者の記憶である。
 だが、記憶でさえ電子的に保存することができる。再生できないのは、人間の思考だ。思考だけが今の技術では再現できない。
 しかし、思考が失われるということが、何故悲しいのだろう。
といったところ。このへんの論理の無茶っぷりが破綻してそうなしてないような危うさが素敵だ。容赦なく断定していく。そんなに気軽に断定していって大丈夫なのか? 矛盾しそうなもんだが……ファンタジーだ。快い。
 こんな美男美女金持がぞろぞろいて、華麗な活躍をする世界、あるかよ!(有閑倶楽部) みたいなもんで、こんな思考独白してるような人間がぞろぞろいて、華麗な活躍をする世界、あるかよ! てことか。
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 命が、万人と共有できる価値だって? しかし、真賀田博士とわれわれは、命の価値を共有していないだろうに。
 と、言われれば、確かにそうだな。
 そもそも、万人と共有できる価値なんて、あるのか?
 いやいや、あるとも。命がそうでなくても、万人と共有できる価値というのは、ある。だって、われわれ には従わなければならない法則があるもの。つまり物理法則だ。だからまず最低、物理 法則をわれわれは共有している。ここは確実。
 そこから先は人によって多様性がでてくるけれど、たいがいの人は生物学的法則(本能 )から逃れがたい。社会倫理とかはそれよりぐっと落ちるけれど、守ってる人はたくさ んいる。これらは程度と頻度とに濃淡があって、「万人」とは言えない。
 言えないけれど、すごく濃いものは「ほぼ万人に共通できる価値」と言える。人命はそ れなりに濃いんじゃないかな?
 いや、むしろ、人命は淡すぎず濃すぎず「ちょうどいい」のかもしれない、小説のネタ にするのに。うん。きっとそうだ。

2002/03/08 (金)

[ゲームでの観測者問題。救世と地獄と学園祭前日。(game)(movie)]

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 ゼルダの伝説/夢をみる島DXについて、綾茂勝太郎氏の終末の使者の正体──苦悩するプレイヤーを読んだ。面白い。
 ゲームにおいては、救世を展開のクライマックスにもってくると、ゲームクリア=ゲーム世界の終わり と矛盾して変なことになるわけか*1。それは面白い。
 ゲームでは、「プレイヤーがプレイすることによって世界が存在させられる力」が強い。観測者問題が深刻なのだ*2。夢をみる島のような話が作れるのはそのためだろう。
 映画の登場人物が、「でも、あと12分でフィルムが終わって、わたしたちは消えてしまうのよ!」とか叫んだりはしないものな。したら面白いなあ。もうあるかな?
 「毒を飲んで、あと5分の命なのだ」
 「だが、君が──君、お前、あなたのことだよ──この先を読まないでいてくれれば、そうすれば……」
 つづく
* 1:
 『バロック』のような悪夢な世界だと、救世=ゲーム世界の終わり が矛盾しない。が、悪夢な世界をうろついていると気分が悪くなりもする。地獄を舞台にするか、永遠の夏休み(学園祭前日?)を舞台にするか、悩みどころってわけだ。
* 2:
 観測者(プレイヤー)の利用については、GPMにおける「世界の謎ゲーム(ファンパレードマーチ掲示板2000年10月〜世界の謎掲示板2001年12月20日)」を見よ。
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