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2002/08/16/01aをより詳しく。
『バガボンド』の主人公、武しゃんについて。
*1
ときどき、「単純に、斬り合いをやって相手を殺したほうが強い。ただそれだけ」などと言う人がいるが、間抜けである。話というものは工夫を凝らしてこそ単純になるのであって、「単純・ただ・それだけ」という言葉をくっつけるだけではい単純になりましたイージー楽勝などということはない。本当はちゃんとした理屈をこねなければならない問題だということを薄々わかっていながら、語る言葉がみつからなくて「ただ単純に」などとと言い出すのはよせ。あなたが「ただ単純に……なだけ」と言いたくなるような問題は、本当はあなたがもっと深く考えて理屈を練らなければならない問題なのだ。
どっちが強いかという話をするときは、対戦者2人の間にルールの合意がなければならない。どっちが勝ったかという話はそれなしでもできる。つまり、ルールの合意をしてから戦いをすれば、勝ったほうが強いといえる。無印の勝敗はただ一度起こる歴史上の事実であり、強い弱いというのはそれをずっと一般化した事柄である。ルールとはこの一般化のためのものである。史実A1においてXはYに勝った。史実A2においてもXはYに勝った。史実A3においてもXはYに勝った。A1、A2、A3においてこれこれの状況Bが共通していた。将来の対戦においても状況Bがあるであろう。このとき、XはYより強いという。状況Bが対戦者2人に既知のとき、ルールという。
*2
戦国時代には数々の戦いがあり、刀を持った人間が向き合うという状況が無数にあった。武士とはその手の状況が将来また起きると仮定することで存在している人間であった。そう仮定していたから剣術道場に通っていた。その仮定が怪しくなってきたのが武しゃんの時代である。再び戦国時代的な戦いがあるのか? もうないんじゃないか? だが剣術家たちは、世間体としては、「きっとある」と言わなければならなかった。武士は戦士階級であり、彼らは社会の支配階級でありつづけたかった。彼らには既得権益があった。既得権益を切り分ける分配法の一基準が剣の技術であった。剣術に優れた武士は良い地位につける。この剣術経由の仕官ルートで競われる剣術競技には、板張りの道場で一礼してからはじめる、明確で死亡率の低いルールがあった。
つまり、剣術は武士階級内部では仕官選抜用競技となっていたわけであるが、世間的には将来起きるであろう戦国時代的実戦に備えるものであると称していたし、武士自身にもぼんやりとそんな感じに考えていた者がおり、現代のわれわれにもぼんやりとそんな感じに考えている者がいる。「実戦をやってみて勝ったほうが強い。単純にただそれだけ。簡単な話じゃん?」
武しゃんの人生はこのぼやけた認識のうまいところを突いたものである。
果し合いの相手の船頭を買収しておいて相手を海に突き落とさせて殺す。これはぼやけた人々の判断基準からは「無し」とされるだろう。相手の裾に海水を吸わせて重くする、これは「有り」らしい。武しゃんはこうした有り無しの判断基準のグレーゾーンの中の、いい具合の部分を歩んだ。彼自身は意識していなかったかもしれないが、武しゃんは、どこまで対戦相手を裏切ってもぼやけた観客が許容してくれるかという範囲をぎりぎりまで攻めて、それで勝った人間である。剣術家として彼に殺されるという経験はやるせないものだ。彼らは武しゃんの挑戦を断ればぼやけた認識によって腰抜けチキンハート呼ばわりされたであろう、それが業腹で挑戦を受けた。そして納得のいかないまま負けたが、ぼやけた認識的には「有り」だったので、剣が弱かったとされたまま死んでいるのだ。
ぼやけた認識とはどこがぼやけているのか、はっきりさせておこう。帯剣して向き合ってからの殺し合いという状況が戦国時代に数多く見られたことはたしかであるが、不意打ちも有りだし裾を濡らすのも有りだった。戦国時代の武士達は、最終的に国取りを目指した総力戦をしていたのである。寝込みを襲えたりするのならばそんな有り難い事はなかった。が、不意打ちや夜討ちはそうそうできるものではなかった。だからしょうがなく、彼らは帯剣して向き合って殺し合いをしたのである。戦国時代の武士は現実に対応して、ベストを尽くしていた。その行為を後から眺めると、なるほど連中は刀剣による斬り合いばかりしていたんだなと思ってしまうが、その斬り合いはいろいろ試した結果たまたまベストだったのであって、本質的なものではない。毒殺しようが溺死させようが、いや相手を殺さなくたって、お世辞を言って同盟を結ぶのもよかろう。国取りができるのならば戦国時代の武士は何だって喜んでしただろう。それらの手段が多くの場合、たまたま使えなかっただけだ。
だが、そういうわけで斬り合いが最も目立った技術だったので、戦乱が鎮まっていって安土桃山時代に至ったとき、毒殺術でも侵入術でもなくて剣術が、仕官選抜用競技として選ばれた。
選抜用技術とは階級を分別するためのマーカーとなる技術であり、現代の受験勉強と同じものである。そのような技術体系において、その技術体系の中だけで「実戦的に、ルール無しで、何でも有り」という概念を定義することはできない。ここを勘違いしているのがぼやけた認識のぼやけている所以である。実戦とは選抜用技術のシステムを内包してより大きい、社会とかなんとかそういった世界で戦われるものであって、剣術指南役と一緒に酒を飲んで取り入って考査で色をつけてもらったりといった行為も実戦である。ルール無しで何でもありとはそういうことだ。そしてその目的は相手を殺すことなどでは全然なくて、立身出世であった──戦国時代の目的が国取りであったように。
殺人に拘る必要など無い。著名な剣客を殺して名をあげて立身出世というルートもあることはある、が、それはあったとしてもたまさかであり稀であり、そのルート狙いに決め打ちできるほどではない。
武しゃんは不意を打ったり寝込みを襲ったりして剣客を殺していき、自分の剣術が実戦的に強いと証明しようとした。仕官のためだとしたら、それは勘違いであり、仕官選抜用技術としての剣術を理解していない行為である。剣術を仕官選抜用技術として含む安土桃山の社会システムの中で立身出世を目的とするのなら、様式化された剣術ルールに従ったフェアな強さをアピールすることこそが、実戦的なのだからだ。武しゃんのやったことはまるきり逆である。彼は「剣術は人殺しの技術なり」という建前に拘って非実戦的になってしまっている。世界が変化すれば実戦も変化するのだ、あたりまえだ。
諸国大名が、自分より偉い奴を闇討ち夜討ちしていくような人間を登用するわけがない。そんな人間に地位を与えていったら選抜用技術としての剣術は崩壊してしまったであろう。
*3
「実戦をやってみて勝ったほうが」だと? 実戦をやってみるなどという表現がある時点で、それが実戦でないことが露わではないか。実戦は、「やってみる」ことなどできない。実戦は生き方であって、好きなときに始めたりやめたりできるゲームではないのだ。
*4
仕官ではなくて、最強の剣術家になることが彼の目的だったとしたら、誰某こそが最強の剣術家なりと判定する判定者は一体誰なのか。武士階級の仕官選抜者だとするならば、競技としての剣術のルールにフェアに従わねばならない。他の剣術家を判定者にするにしても同じである。では、彼、武しゃん自身がその判定者なのか。他人に認められなくても、自分自身の剣の道を究める──たいへんいさましい言葉の響きだが、そういうのは一人でやれることについて言う台詞だ。先に述べたように、どっちが強いかという話をするときはルールの合意がなくてはならないのだ。対戦相手がほしいのなら、自分だけにわかる「俺基準」「俺ルール」に基づいてゲームをプレイするのはやめろ。
ここで一応、武しゃんの目的はもう一つ考えられる。すなわち、仕官ではなくて、客受けが目的だったというケースである。客とは当時の非武士階級、あるいは武士階級のなかでもぼやけていた連中、そして安土桃山以後、歴史や物語として武しゃんの人生を眺めることになるぼやけた観客だ。彼らを判定者とするのである。この場合、彼のやったことは実戦的になるのかもしれない。どちらともわからない。こういった判断は客観的には下せない。今現在と今後将来のわれわれの行動に依存するからだ。僕はさてこの文章で、武しゃんを批判しているわけである。
*5
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別の言い方をしよう。実のところ、武しゃんにだって佐々木小次郎への信頼があるのだ。
佐々木小次郎は、武しゃんをかなり信頼していたと言えよう。彼は、手紙を受け取るときその配達者が武しゃんの変装したもので、手紙を手にした瞬間にばさっと斬られて「果たし状を手にした瞬間から果し合いは始まるのだ、小次郎迂闊なり」と言われるようなことはないと思っていたであろう。毎日の食事に毒が入っているか否かもチェックはしなかっただろう。小次郎は武しゃんを信頼していたのだ。その信頼は巌流島でちょうどいい具合に裏切られた。裾を濡らし、櫂を武器として。信頼したから裏切られたのだ。武田鉄也の歌みたいだ。
だが、人を信頼しなければ、協力行為はおろか敵対行為すらありえない。果し合いですら、多くはないがある程度の、信頼によって成立する。小次郎がもう少し武しゃんを信頼していなければ、たとえば槍や弓を持っていっただろう。そうすると櫂では槍弓に勝てない。武しゃんは鉄砲を持っていく。そうすると、そうすると、そうすると、やがて果し合いではない何か別のものになり、最後には敵対行為ですらなくなる。2人は出会わず、互いを無視して生きていく。
信頼を含まない純粋な敵対行為などないのだ。この世の中に真のゼロサムゲームを戦ったやつはかつていない
*6。スポーツやボードゲームは楽しいし、決闘に勝てば婦女子ゲットだぜ。期待値がプラスだから(少なくとも戦わないよりも高いから)戦うのだ。武田信玄と上杉謙信は人と馬とを武器にしたが、彼らが戦場で絶体絶命のピンチに追い詰められたまさにその時、地球破壊爆弾(自分と猫一匹だけが生き残るとしておこう)が手元に届けられたとして、彼らはそれを押しただろうか? 押さない。実は彼らの戦いはゼロサムではないからだ。彼らが全力を尽くして戦い合っているように思えるのは、地球破壊爆弾に相当する選択肢がたまたまなかったために、ノンゼロサム性が見えづらいからである。
武しゃんは対戦相手の様式化を批判しながら、自分も剣術家集団が維持してきた剣術試合の様式の上に立って、それを利用している。小次郎を信頼しているくせに、小次郎の信頼は裏切る。そうした自分の行為に自覚がないなら馬鹿だし、あるなら下司だ。
だから、武しゃんは厨ゲーマーである。マンチキンである。困ったちゃんプレイヤーである。互いの勝利条件を確認し、ルールを尊守して遊んでいる剣術家集団のコンベンションに乗り込んできて、彼らの社会的建前を盾にとって絡んでくる嫌な男だ。迷惑人間だ。いったい何が楽しくて、何を勝利条件にしてそんなことをしてくるのかわからない。剣術家集団からすると蔑んで遠ざけたいのだが、血気さかんな若者が挑発に乗って相手をしてしまい、当然負ける
*7ので、外部からは「剣術家って弱いんじゃない? 武しゃんカコイイ!」と評価されてしまいやるせない。憤懣やるかたないとは彼らのことだ。まったくもって武しゃんは許せないのである。
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さて以上の理屈は理屈だが、その理屈を書き留めたくなった理由動機はその理屈とぴったり一致してはおらず、ずれている。つまり、武しゃんが人殺しなので気に食わないのである。なにしろあんた、人が死んじゃうんですよ? これはムカつくー。マジで。
人が死んじゃうというのはけっこう大変なことなのだ。いいかね、スラムダンクはバスケットボール漫画だった。バスケの試合に負けた人間は「いい勝負だったな。だが、次は俺はもっと強くなってる。負けないぜ」と言える。あるいは全国大会を諦めて受験勉強を始めるのかもしれない、それは負けだが、人生で選べるルートの一つで負けて他のルートに移ったという負けだ。移った先で次がある。しかし殺し合いに負けた人間はそこで死ぬので「次は勝つ」とも「次は他の道を試す」とも言えない。
だから、*殺し合いは成長物語にはならない*のだ。もし一歩譲るとしても、殺し続けた側の成長物語である。殺し合いに負けた人間にとっては、その勝負は人生の終着点であって、成長の途上で通過する経験などではない。(1/2*致死率)の確率でそんな終着点に変貌するイベントを繰り返すことがなんで成長物語になるのか? なるはずがない、なるとしたら、何かイカサマをしていて無敵モードだからだ。そしてそれは、柳生の爺さんや吉岡の若旦那が武しゃんを斬らないからだし、武しゃんが主人公だからだし、野郎にカメラがついてるからだ。
そういう無敵モードの人間が、何かに巻き込まれてやむを得ずではなしに、好んで人を殺しに行くのが 許 せ ん 。
誰か早く武しゃんを斬ってください。