bでも十分上にソートされるはず日記
2003/01 その1

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2003/01/05 (日)

[テニスサークルでウテナ。(animation)]

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1999/09/03/02aからの続き。
 ある年齢層の男女から成る集団はすべて恋愛ヒエラルキーを構成する。つまりどんな集団も、どの野郎がその集団の恋愛勝者になるか、どの娘っ子がその集団の恋愛賞品であるか、というゲームの舞台になる。否応も例外もなく、なるのである。のんきな人間は自分の属しているさまざまな集団で繰り広げられるそうした競争の火花に気づかなかったり、気にしなかったりするが、それはぬるい。
 少女革命ウテナにおける鳳学園というのは、たとえばテニスサークルのようなものであり、その部のトップエースになった野郎がその部で一番美人の娘っ子とエンゲージするというゲームなのである。だからテニスサークルの部内試合が決闘に相当する(参照:HTMLのダンス)。
 だがほんとうは、その決闘ゲームはいま自然に存在しているわけではなく、昔から存在してきたわけでもなく、誰か人間がプロデュースしたものである。そのテニス部を創立したやつ、あるいはテニスというスポーツをはじめたやつが、人の世にあらたな決闘ゲームをひとつ付け加えたのだといえる。それがウテナ世界では、鳳暁生である。やつは決闘ゲームを作ってプレイヤーを募集し運営した人間であって、プレイヤーではない、つまりデュエリストではない。
 またほんとうは、ゲームの賞品は娘っ子とは限らない。人間の集団——家族、会社、役所、国家。あるいは制度、より一般化して言ってしまえば、人間関係すべて——のきまりごとというのは恋愛にとどまらず、もっと多くのものを提供できる。宝くじならお金だし、その他、うーん、まあいろいろだ。永遠、光、輝くもの、友情など。決闘に勝利した者は、優しい言葉も、鉄十字章も、みなその手にできる。鳳暁生がデュエリストに約束していた品々は決して幻ではなく、現実に掴みうるものである。ただし鳳暁生がそれらを持っていて与えるというわけではなくて、いわばゲームと参加者によってそれらは生じる。
 さて、とはいえマーケットであるアニメ視聴者にとって、そして現代日本の人間にとって、最も価値の高いのは恋愛であろう。ビジュアル的にもわかりやすいし、そういうわけで恋愛ゲームが少女革命ウテナの主題であり、その賞品である娘っ子には、人の望むものならなんでもおまけでついてくるという設定になっている。
 ここしばらくは娘っ子のしあわせとは、この恋愛ゲームの賞品として選ばれることであった。競争は野郎のすることであって、それを勝ち抜いて王子様になった野郎を遠くから憧れ眺めていると、雲上から野郎が微笑みかけてくれてイヤッハーらぶらぶ。ハッピー。エンドマーク。というのが理想ルートだったわけである。勝者の手にする物品権力栄誉、その一部として女子集団の中から選び出されること、それが女子の目標であり喜びである。それもよかろう。だがよくない! で、天上ウテナがやってくることになる。
 天上ウテナはディオスの、理想を失う前の鳳暁生のかっこいい言葉に感化されたのだが、馬鹿なのでそのままかっこよく育ってしまった。そのため彼女は、アンシーが決闘ゲームの賞品に甘んじ、受動的に、王子様のよろしいように生きてるのが気に食わない。ここで革命家なら、鳳学園の決闘ゲームというシステムを、社会を壊して再構築しようとするのだが、この解決は最近流行らないらしい。
 天上ウテナがしたのはアンシーひとりの気を変えたことであった。つまり個人レベルでの解決である。それ以外の人間は、社会は、前通りの生活を続け、天上ウテナのことなど忘れてしまう。
 劇場版では、冬芽八方向型王子様は不特定多数の娘っ子のために身を捧げて死んでしまう。御国のために死んだ戦争英雄のようなものだ。自己犠牲だ。かたや暁生演技派型王子様は虚像と自身との矛盾に悩んで自爆して死んじゃう。だれだっけ、HIDEとか言ったっけ? 僕にはそんなスーパーヒーローみたいな力はほんとうはないんだ、皆はちやほやしてくれるけど、格好つけてるうちに本物の才能は腐らせてしまったんだ。
 そういう王子様たち、野郎ども、に頼らず、といって野郎どものゲームの舞台にくわわって競って勝って娘っ子が王子様の地位を奪ったって本質的にその構図が再現されるだけなんだからそれも捨てて、違うところへ行こう。このゲームから出て行こう。
 その先にもしかしたら人の世の矛盾すべてを解決した境地があるかもしれない。それがなくて、本質的にはおんなじ別のゲームを始めるに過ぎなかったということになるかもしれない。いや、たぶんそうなるだろうし、あたらしい城を作るまでも至らず、路傍に屍をさらすだけかも。
 でも行こうや。志高く生きとけ。
 そういう話かと思いました。

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 以上の文章は少女革命ウテナを要約しようというものではなく、参考のひとつになれば幸いといったものである。榎戸祥司が『薔薇の刻印』のインタビューや脚本集で言うように、アニメは監督脚本演出絵コンテ原画動画の足し算でつくるものではない。還元可能であるべきではない。言葉ですべてを引き出しきれないものであるべきだ。要約して簡単に言ってしまえることかもしれないが、簡単にすませたくないから、まわりくどくアニメにしたのだ。だから以上の文章などひとつの派生物としてどっかの隅に押し込めて、もっともっと深く読むのがよい。それ向きに端々おもわせぶりに作ってある。それを、簡単なことをスカして作ってやがる、けっきょくこれこれこうだってだけの話だろ、と思った人は、卒業してしまえ。人生実際、どこかしらでなにかしら割り切らなければならないんだから。


2003/01/06 (月)

[魔女が奥様。(animation)]

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 何かを言葉にしつつ、それが言葉にしきれないものであることを望むというのは、一感、矛盾しているが、それほどでもない。文章化できた文章の絶対量を最適化するということである。どれだけ面白い文章を作品から引き出せるか、ということである。

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 ところで、まだわからないのは、たとえば魔女の扱いだ。薔薇の花嫁は魔女だとか言われて世間や兄から疎まれていたようだったが、何のことだ。夫に対する妻? 王子様はフリーの時はヒーローなのだが、ケコーンすると特定のだれかすなわち妻のものになってしまうので、不特定多数に対する英雄ではなくなってしまう。だから、世間は妻を憎む……剣でざくざく刺すほど憎むってのが納得いかないので、没。


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