bでも十分上にソートされるはず日記
2003/01 その3
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■[ICO。一つの欠如は、すべてを統べ……(game)]
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2002/11/29/01aからの続き。
Goebbels通過儀礼的ゲーム『ico』 理屈屋。読み応え十二分。
コンピューターゲームというのは、そもそも、常に一つの欠如を孕んでいる。なぜならまだクリアしていないからである。エンディングに到達していないからである。だから、
・プレイヤーがゲームを買ってくる [a6]何らかの欠如
と言えば言える。ヨルダ自身がそれを望んでいるかどうか不明であってもプレイヤーがヨルダを脱出させるのは、Goebbelsの言うようにかつて失敗した通過儀礼の復讐戦である、というよりも、この一つの欠如による部分が大きいと僕は考える。
しかし通過儀礼に着目するのは有用な考え方であろう。
橋でヨルダが石化したとき、かつての通過儀礼の失敗の記憶が、その再挑戦と完遂をプレイヤーに促すのだ、とGoebbelsは論じるが、これはちょっとずれてる。プレイヤーはヨルダの石化を自分の失敗とは捉えない。むしろ「よし、少年が失敗する、というイベントのところまで来ることに俺は成功したぞ」「俺もそういうふうに失敗したことあったよ。少年、がんばれ。立ち上がれ。そして早く俺に操作権を戻せ」と考える。自分は成功しており、他者としての少年が失敗したと捉える。だからここでは、プレイヤーの記憶の働きは小説や映画の鑑賞時のそれと変わらない。
プレイヤーのトラウマがプレイヤーを再起させるのは、ゲームプレイ中の数々の少年死亡時のほうである。うわぁまた死んだよ。アクション難しいって。この部屋にもう2時間もいるよ。謎解けねえぞちくしょう。こうしたプレイヤーの挫折時に、彼をして座布団に叩きつけたコントローラーを再び手に取らせるのは、記憶の中のかつての苦い体験でありうる。
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