bでも十分上にソートされるはず日記
2003/02 その3

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2003/02/22 (土)

[危機を遡ると、川向こうに……パトレイバー劇場版WXIII。(movie)(animation)]

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 レンタルビデオで観た。
 廃棄物13号の話は、コミックでは、所長やメガネくんや米軍、vs二課が、どっちもそれぞれの仕事をしてるなーという様子が面白かった。所長たちのせいで人死にが出るんだけど、悪意はなくて、事故ぎみ。で、二課がちゃんと仕事して、それを収拾する。
 映画だと、所長やメガネ君の描写が少なくて残念。自衛隊のノッポが悪玉だし……悪玉が、つーか事態の全容を把握してる人間がいないとこがマンガ版でのポイントだったとおもう。
 あと刑事や後藤が、相手(ねえちゃん)の心情を理解しにいっちゃうのもかなり違うとこで、マンガだとwhy done itにはほとんど近寄らない。そういう健全さ(?)があった。
 だからコミックには、日常性みたいなのがあった。怪獣がけっこう小さくて、死傷者が100人もでないくらいなのは、そのせいだったように思う。負ける気がしない。危機じゃない。
 映画はそういう日常性は描きにくいし、第一作でも第二作でも、本作でも描いていない。ならば、怪獣をもっとでかくして、3000人くらい死ぬ勢いをだしたほうがよかったんじゃないのかな。なんで自衛隊じゃなくて特車二課がやらなきゃいけないのか、という状況づけが難しくなってしまうけれど、そこいらへんはなんとか。

 考えてみるとコミックではけっきょくさいごまで危機はなかった。ゆうきまさみはどの話でも、ほとんど必ず最後の1コマでオチをつけて、緊張感を抜いてた。なかなかできることじゃないと思うので、感心したものだ。

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 動機の追及、why done itをやって、トラブルメーカー(犯人)の心情に寄っていくのはいい。だがそこからWXIIIでは、誰の心の中にもこういう面は潜んでいるんだ(母親なら誰でもこんな気持になるかもしれないよね)、という話をやっている。第一作(帆場)と第二作(柘植)ではそうじゃない。
 本作では把握してるのがねえちゃんと自衛隊なもんで、危機とwhyとをさかのぼっていくと地続きのところでたどりつけちゃう。トラブルメーカーに追いつけてしまう。
 第一作と第二作では、なんか常人の窺い知れないものを見ちゃった人がいて(参考:「帰還兵もの」。あいんべさーれすもーげん内虚構と日常生活)、凡俗にそれを教えてくれるんだが、凡俗にとってはそれがテロであり(常勝! 神林長平)、主人公たちの収拾すべき危機である。whyを追っていくと、事態を把握してる人物が彼岸にイッちゃってて諦観している。
 細かいプロットのひとつひとつが、トラブルメーカーを指し示していて、順次大きなプロットに統合されていき、最後にその人格にたどりつく。だが、タネあかしがタネあかしになってないので、視聴者はそのまんま空気投げをくらって跳ね返される。終点だったはずのトラブルメーカーの人格がわけがわからないので、その人格を理解するために、映画の始点にもどらなければならなくなる。トラブルメーカーの人格が、映画それ自体を参照している。
 彼が何を言いたかったかといえば、視聴者がそれまで見てきたものを見せたかったのであり*1、どんな人物が今まで見てきたきた状況を引き起こしたかといえば、今まで見てきた状況によってつくられた人物である。

* 1:
 この意味では、柘植と押井監督とを重ね合わせることができる。戦車が議事堂前に、兵士が交差点に立つ風景。橋が落ち情報が途絶する状況。それを東京のうえに描き、人々に見せ、体験させたい。だからこの事件を企み、そしてこの映画を作ったということになる。

2003/02/26 (水)

[意図当てクイズ愚策。誉貶のザル。(etc)]

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 以前5人タクティクスオウガで書いた話(カチュア、デニム、プレイヤー、アシタカ)だが、
 作者が作品中に、歴史上のなんらかの事件Aを下敷きに、事件A'を配したとする。そしてまた彼が同様に、事件B'を描いたとする。このとき、彼は気付いていなかった(その時気付いている人間は誰もいなかったかもしれない)が、実世界での事件Aと事件Bとには、なんらかの因果関係があったのだった。すると作者は、彼が意識していなかったA'-B'関係を描いたことになる。
 作品が出題であり作者インタビューが解答であるような、作者の意図当てクイズ的視点がいまいち発展性に欠くのは、たとえばこのためである。世界の歴史は、一個人である制作者の歴史なんかよりはるかに大量である。

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 だから、話は変わるが*1、「作者はそこまで考えてつくってないよ、ぜったい」などと書いてまとめようと試みるのは愚か気味といえる。だいたい、作品を作者を誉貶するための根拠として使おうという姿勢がぐんにょり方面である。

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 話は変わるが、会話していて返答は「でも」と返すし、返されることが多い。それがろくでもない方向に会話を持っていきそうなときでもつい言ってしまう。そうじゃないよ逆のこと言いたいよと思っていながら、会話の流れていくつなぎかたがうまくつなげることができない。会話が対立構造になってしまうのは、われわれ人間が集団の他構成員を操作しようとして説得力を発揮しあう説得ゲームの達人プレイヤーであるからだ*2。ただし、第三の仮想敵をつくってそいつを貶せば、「でも」でない会話をすることができる。これもゲーマーとして頷ける現象だ。この2パターンに限定されがちなために、いろんな発想発展が掬い取られそこねてきたわけで、困ったものだ。

* 1:
 前の話からこっちへはつながるが、こっちから前の話にはあんまりつながってない。
 こっちの話のほうが一般的である。

* 2:
 なぜここで、「人間集団はゲームの場である」と書かないで、「人間はゲームのプレイヤーである」と、一段細部に下がって書くのか。そのほうが僕にはしっくりくるのだが、しかし本来は等価か、むしろ煩雑なので前者の表現をするのが上策だろう。

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