目的と手段がらみの話

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目的と手段の混交

 マーズ雑談掲示板;ゲームの自由度を定義してみよう(桝田省治) [2002/5/30,22:10:28]
 自由度とは、手段が多いことです。
 しかし、これだけではつまらない。そこで、自由度があって良いとはどんなことか? と、問い直してみます。
 自由度があって良いとは、良い手段が多いことです。
 ここでしかし、あるひとつの目的に対して、それに最適な手段は、与えられた手段集団のなかのひとつだけです。いや、同程度に適した手段が複数個あってもいいのですが、それだとたとえば全部の手段が同程度に適していた場合、良い手段はない、ということになってしまうわけで、うまくありません。
 さてそこで、目的が複数個あったらどうでしょうか?
 目的が複数個あれば、それぞれの目的にとって最適な手段がひとつずつあってよいことになります。そうすれば、与えられた手段集団の中に複数個の良い手段があることになります。
 したがって、自由度があって良いとは、目的が複数個あって、それぞれに対応した手段があることです(ときメモをみよ;ギャルゲーと意志決定 ガンパレをみよ;GPMエリートの発生)。

 ゲームでは、目的と手段が混交することがしばしばあります。言ってみれば、あるパズル(アクションゲームや数学的パズル)を解くことで目的(娘っ子のグラフィックやお話のオチ)を手に入れる場合に、そのパズルがよくできていればいるほど、解く際にプレイヤーーが苦労をしていればいるほど、そのぶんが目的の価値に上乗せされるのです。目的を手に入れるための過程に価値が生じてしまっているのです。したがって、目的と手段という二分法がうまく機能しない場合があります。特に初期のコンピュータゲームでは、その価値のほとんどをパズル部分に頼っていたため、この傾向が顕著です(ゲームウォッチをみよ)。
 この混交を上記の議論に適用しますと、各手段がそれぞれ魅力的ならば、たとえ目的がひとつしかなくても、それぞれの手段が目標となることで、自由度が高くなりうるということになります。

 へたをすると、「良いゲームとは、目的と手段とが良く混ざっているシステムである」などという定義ができてしまうかもしれません。

 一晩寝て起きたら、あんまりたいしたこと言ってない気がしてきた。ピンチ。

パズルとゲームとヒカ碁の神様

 馬場秀和のRPGコラム2002年7月号”ハイパーロボット”とパズルゲームの楽しみを読んだ[hr]
我々の想像を絶するほど高い思考能力を持つ知性体(神でも異星 人でも量子コンピュータベースの人工知能でも何でもよい)がいたとしよう。彼 または彼女またはそれにとっては、「チェスの正解手順探し」でさえ有限時間で 解決可能な問題と見なせるとする。そうすると、彼または彼女またはそれにとっ て「チェスはパズルである」ということになる。そうだろう?
 何が言いたいのかというと、あるシステムが「パズル」なのか「ゲーム」なの かは、そのシステムの客観的・絶対的な属性ではなく、それに取り組む「プレー ヤー」の主観的・個人的な評価である、ということだ。
心中でもやもやしていた考えをあざやかに文章化されてしまった。気持ちいい。
 この理屈はコンピュータゲームに容易に応用できるように思う。すなわち、コンピュータゲームはプレイヤーの技量と意気込みによって、パズルになってしまいもするしゲームにもなりうる。「グラディウス1周」は、そのプレイヤーがシューティングゲーマーであり、絶対達成できる・してやるという信念を持っている場合、パズルとなる。そのプレイヤーがSTG初心者であり、数面遊んで駄目だったら諦めてしまうようなやる気しか持っていなかった場合、ゲームとなる。(決意の弱さ・可変性がゲーム性につながる──ギャルゲーと意志決定も参照のこと)
 読んでいて自分で文章をこねてみたくなったのでこねる。言葉を言い換えているだけの部分もあるかもしれないし、違うことを、逆のことを言っている部分もあるかもしれないがそのへんは軽い気持ちでいってみる。

 パズルとゲームとプレイヤーとの関係について。

 解くに足るパズルを十分多数供給するシステムをゲームと呼ぶ。十分多数などといわず本当は無限に供給してほしい。その点で人間はプレイヤーにとって理想的なブラックボックスである。このブラックボックスはプレイヤーと同程度の問題解析、同深度の先読みをして、選択を行いコマを動かす。その結果盤面が新たなパズルとなってプレイヤーに提出される。向上心ある人間は一生分のパズルを供給してくれるので、一人二人確保しておけるとよい。
 あるいは──プレイヤーが非当事者のままで、客観的にゲームの外側に立ったままで、最後まで分析してしまえるシステムをパズルと呼ぶ。外側から最後まで分析しきれないだけの複雑さを備えていて、プレイヤーがその内側に躍り込んで臨機に応変していかなければならないシステムをゲームと呼ぶ。この場合、あるひとつのゲームプレイが終了したとしても、プレイヤーがそのシステムを解いたとはいえないが、プレイヤーがシステムに対処したとはいえるだろう。
 だから、「まあだいたい考えるところまでは考えた。こっから先は無理だ。ええもう、やってみろ!」という瞬間がゲームであり、パズルではないところなのだろう。ほんとは、ラプラスの悪魔がはげたかの餌食ですら解析してくれるはずだし、ゲーム理論家も株式市場を描写しつくすべく給料をもらっているのだが──いつの日か……こんなわしって素朴なドリーマーじゃろか。
 今週号のヒカルの碁、第168話で、「やっぱ自分と張り合えるだけのプレイヤーがいると楽しい。神様はそんな対戦相手がほしくて碁というゲームを作ったんじゃないのか」などと乙女チックなことを言っていたが、なるほどと納得できた。というのは、以前からヒカルの碁では「神の一手を目指して」というフレーズがしばしば言われていた。僕はしかし、「神の*一手*って何のことだ? 神は碁のツリーを最後まで書き下しちゃってるんだから、一手もなにも、フラッとやってきて『ああ碁ね。(先手必勝||後手必勝||引分け)だよ』と言い放って去って終了、じゃないか」と思っていたのだ。ラプラス的な神様だ。しかしヒカ碁の神様はツリーを完全に書き下す全智千里眼な存在ではなくて、すごい優秀なパズル供給機・ほれぼれするほどいかしたブラックボックス、だというわけだ。
 なお、こういったパズル供給機型の神が大活躍するのが会話というゲームである。俳句やら和歌やらの歌会句会は、相手の詠んだ歌に絡んだ、関連づけのある歌を詠むべし、というルールに基づいてプレイされるゲームであり、そこでは一句ごとの歌がパズルとして相手に出題される。ルールを守りつつ、音韻やら縁起のいい言葉やらの採点基準(これは相手に依存せず一定)を高く満たした歌を捻ると誉めてもらえるわけであり、こうした句会歌会を一般化してルールや採点基準を緩めたものが会話であると言える。巧みに誘導して自分の自慢話その他、話したい話題に持っていくことを目指すゲームなのだ。相手が知りたがっている情報が手持ちのリソース、時間が双方の共有するリソースである。
 盤上でゲームを遊んでいるときでさえ、少々年を経たボードゲーマーはルールの説明や戦術の助言の中に敏く静かに誘導を仕込んでおくものである。マルチプレイヤーゲームをプレイしているプレイヤーは戦略を議論しながら説得ゲームを遊ぶのであり、極論すればマルチプレイヤーボードゲームのルールやマップは、「説得ゲームの依って立つべき客観的な土台」を提供するために定められているのだ。その土台を大胆に軽視したものがディプロマシーである。
 ちなみに会話というゲームはわれわれ人類がここ数百万年むちゃくちゃ鍛えまくってきた種目なので、もし今日あたり犬やら猫やらが口の利けるようになったとしても、まるきり相手にならないと思われる。残念なことだ。


馬場コラムについて*hr
 余談だが馬場コラムで「チェスは先手必勝であると数学的に証明されている」とあるのは誤り。先手必勝であるか、後手必勝であるか、引き分けるか、の3つのうちのいずれかである。と証明されている、が正しい。2人、零和、有限、確定、完全情報ゲームはそうなのだ。

本稿「パズルとゲームとヒカ碁の神様」はScoopsRPG読者の声へ投稿したものです。

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20020627 作成。「目的と手段の混交」
20021029 パズルとゲームとヒカ碁の神様 作成。