山犬狩猟民族説

 公開以来驚異的な反響をもたらし、さまざまな記録をぬりかえた宮崎駿監督作品「もののけ姫」。
 すでに多くの批評・分析がなされ、関連した出版物その他の媒体は、数え上げられないほどである。
 ここでは、「もののけ姫」に登場する「山犬」および「猪神」「猴々」が、人間に対する動物を象徴しているのではなくて、農工業をおこなう民族の人間に対する狩猟・採集民族の人間を象徴しているのではないか、という議論をしたい。

 「もののけ姫」において物語の中心となるのは、エボシ御前と山犬との、シシ神をめぐる対立である。
 エボシ御前はタタラ場の人々のためにシシ神を殺そうとし、山犬は森とシシ神を守ろうとする。
 シシ神は守られようと殺されようと殺そうと、意志を持たない存在として描かれる。最後に首のないダイダラボッチとして大災害をもたらすときにも、それは万人にふりかかる災害であって、自分を害したエボシ御前および唐傘連に対する復讐ではない。
 こうした無意志なシシ神に対して、モロの君をはじめとする山犬は、明確な意志を持って行動し、アシタカと話しさえする。
 そこで、シシ神を森あるいは自然の象徴、山犬を豊かな原生林なしでは生きてゆけない狩猟民族、として解釈することが可能なのではないか。
 農工業をおこなう民族であるタタラ場の人々にとって、山犬は人間ではなくけものであり、映画はこのタタラ場の人々の目でもって、山犬を狼に、猪神を猪に、猴々を猿に描いているのではないか。かつて欧州人がアフリカ人を人間と見ることができず、けものだと思ったように。
 こう仮定すると、エボシ御前と山犬との対立は、自然の破壊あるいは保護において利害の異なる二つの民族集団の対立と読み替えることができる。
 しかしこの民族集団の対立を、善悪で論じることは難しい。
 だからこそ、二者のいずれも悪役として描かれず、またアシタカは対立する二者のいずれにも加担しないのではないか。
 自然と人間との関係を考えるとき、自然と人間、と二つに分けてしまうのではなく、人間の側をさらに自然に対する立場の違いから分けてみる、というのが、「もののけ姫」における視点ではないか。

 以上、「もののけ姫」における山犬・猪神・猴々は、狩猟・採集民族を象徴しているのではないか、という議論を展開した。
 具体的な論拠は、シシ神と山犬が違う立場にあることと、山犬がしゃべることの2つだけだが、この解釈から発展させることのできる解釈にはなかなか面白いものがある。
 そこで後日この解釈にもとづいて、主人公アシタカについて書こうと思う(カチュア、デニム、プレイヤー、アシタカ)。

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