俺の屍を越えてゆけ/皆殺しのメロディだ

ゲームで人を殺す

 コンピュータゲームで人を殺すのは難しい。
 個人をユニットとするシミュレーションRPGで人が死ぬとしよう。その個人への思い入れが強い場合、プレイヤーはリセットしてやり直す。やり直さないのは、思い入れが少ないからだ。
 ではイベントで強制的に殺せ。しかしこの場合、SRPGとしての問題が生じる。SRPGにおいて、ユニットは成長するがために価値を持つ。将来性があるから育てるし、思い入れもするのだ。ゲーム途上の強制イベントで死んでしまうようなユニットを、プレイヤーはそもそも育てない。よって思い入れも薄い。
 SRPGではメンバーが可換なので、この問題は特に辛い。RPGならば、メンバーを固定することによって、死すべきさだめのわかっているユニットを無理矢理育てさせ、その上でイベントによって殺す手もあるのだが。例:FF7のエアリス。
 口伝、芝居、小説、映画、漫画、さまざまな物語の分野で非常に強力な演出手段である人の死が、多くのコンピュータゲームでは有効に機能しないのだ。
 ここで、俺屍は素敵である。物語がある個人の一生の中の出来事ではなくて、n世代に連なる一家の歴史の中の出来事であるため、死が偶発事ではないのだ。人は寿命で死ぬ。事故で、プレイヤーのミスで死ぬのではない。リセットがきかない。育て思い入れたユニットの死を、プレイヤーは受け入れざるを得ない。
 すると、一定周期で必ず撤退戦が発生し、その撤退戦でのしんがりm人が必ず死ぬ、というシステムなら、戦争SRPGで人の死を描けるか……でもなんか変だよな。戦死はすべて偶発的な死であり、必然的なものはない。だから、リセットの存在するコンピュータゲームにおいて戦死を描くことは、本来無茶なことなのか。
 待てよ、ローグのシステムなら可能か、あれはリセットなしという特異なゲームだから。ローグシステムでベトナム戦争のパトロール小隊。1パーティ12人くらいからスタートしてばたばた死ぬ隊員、生き残ったキャラクターは人間性を失うと同時に兵士として完成していく。キューブリック「フルメタルジャケット」に劣らぬ反戦メッセージ性を備えたコンピュータゲームだ! 商品として成立するかどうかは疑問。
 関連話題:鈍色の攻防での人死に 主人公がばたばた死ぬマゾゲー
 追記:FFのいくつかで、年老いた魔法使いが死ぬ際に若い弟子にその力を伝えるという演出があるとの指摘を受けた。これによって老人の行った成長が弟子に受け継がれる。そのため、老人を成長させる動機がプレイヤーに与えられる。FF7のエアリスでも、成長がマテリアを通じて受け継げるので、死すべきさだめのキャラクター{Mortal}への感情移入は成功しうるという。なるほど感得。上でした議論は考えが浅かった。死亡時に成長を受け継ぐことができるというシステムによって、SRPGで戦死を描くことが可能になるかもしれない。

1増えて1減る

 生物学的に非情に解釈すれば、源太とお輪の遺伝子は上書きされてけっきょく世界から消えてしまう。1人減って1人生まれるという比率ではそうならざるを得ない。本来は1人減って2人生まれなくてはならないのだ。だから理屈としては10点の親神とどんどん交神して始祖の遺伝子を保存していくべきなのだが、倍々算なので交神に1月かかる以上、無理である。
 ここに俺屍の嘘をみてとることができる。俺屍の世界では、継がれ保たれ目的を同じくする家というものが存在する。きっぱり存在する。どっしり存在する。存在するように俺屍は作られている。しかし、現実のわれらがこの世界では、家を継ぐのは直系の人間だけであって、「2人目」は余所の家に嫁いだり養子になったりする。ある家に生まれたからといって、終生その家に所属するわけではない。人間は生まれた家の外に出て行くものだ。
 俺屍は、その家に生まれた者はその家で死す、というシステムを選んだ。外に出て行く者はいない。嘘だが、心地よい嘘だ。そしてそのしわ寄せは生物学的に非情な解釈にあらわれている。

人年を救え

 プレイヤーが最大化すべき目標の話。
竜のゲーム、予想(どもん) [2002/3/26,20:0:20]より、
心配な点もあります。
両ゲームとも、言わば「差し迫る有限性」によって「生の輝き」が
逆照射されるというコンセプトでした。
しかし実は、プレイヤーのゲームに対する関係性を密かに規定する
もう一つの二分法コードが隠れていましたね。
それは、「荒んだ外界」と「温かなウチ」という対比です。
( もうすぐ滅ぶ惑星 対 箱舟や二人のテント
 妖怪の跋扈する世界 対 存続する我が家)
そのナルシシックな生温かさに同一化するのは無論心地よい体験です。
そもそも、それこそがゲームの魅力なのだとすれば、これはむしろ美点になる。
しかし反面、
「テーマのもたらした構造がテーマの切実さを打ち消してしまう」
という微妙なところがあったと思います。
そういう意味では、「リンダ」より「俺屍」の方がむしろ退行してしまっている。
 ふむ、ふむ、そう考えるのもアリだろう。しかし僕のお薦めは、プレイヤーとしてゲームをプレイする際、目標を温かな我が家の存続ではなく、人年の節約におくことだ。短命の呪いからの解放(ゲームクリア)が1世代遅れるごとに、4人50年、200人年ぶんの人生が失われると考える(正確には、50年マイナス20月、の4倍)。つまり早解きだ。1世代でも早く子供達に、人並みの人生を味わえるようにしてやらなくては。
 もっともこの解釈をする場合、ゲームクリアを1世代早めるためなら、余命10ヶ月のキャラクターを240人(回)見捨てていいということになってしまい、それはなんか嫌だ。言い換えれば「解呪前の子供1人の人生より、解呪後の子供1人の人生のほうが価値がある」ということになってしまうのが問題なのだ──が、考えてみれば人生Aと人生Bとに価値の差があるとみなすのは当然で、それでこそ努力というものがある。よって、問題は重みづけであって、比率600月対20月を、たとえばだが2対1くらいに見積もれればいいだろう。解呪前の子供の人年の価値を15倍してやればいいわけだ。
 ……これでも本当は不満だ。とりあえず再帰的に定義したものの、底入れされていない。人間の寿命を延ばす研究をしている医者の人生の価値みたいなもんだ(それで満足してもいいのかもしれん?)。まあ、「人生の価値」などというすげえビッグテーマだものな、そうやすやすとかたはつくまい。
参考:ゲームデザイナーお薦めプレイ
※ログ流れてるっぽいのでgoogleで当てた
○常にあっさりモード。 ○ノーリセット。 ○養子は使用禁止。 ○何があろうと無謀にも突き進む。(出来るだけ早くクリアする)

早くクリアするように遊ぶ

 俺屍では、早くクリアして一族の呪いを解くべく努力するよう、ある程度の、誘導が行われている。二年で死んじゃうキャラクターたちが皆、「短かい人生だった…後はたのんだぞ」と遺言を言うからだ。これは重要だ。
 通常のRPGやSRPG、パラメータ持ち越し式のSLGでは、プレイヤーは序盤面で最善をつくすことで、実質「後半面をつまらなくするために」努力をすることになってしまう。(5人タクティクスオウガ思想的背景
 しかし、俺屍では、ゲームの終了がオープンエンドになっていて、何代目でエンディングにたどりつくか決まっておらず、そして常に世代の数を短くするように努力しつづけるよう誘導されるので、この問題がほぼ解決される。
 言い換えると、俺屍では、世代数がこっそりVP(Victory Point)になっている。

家族の階段

 ざるの会のゲームデザイン入門の2.3-4)の図2-13および14、難易度曲線とプレイヤー技能曲線。ここで難易度曲線を、敵(および環境)の強さの曲線と、プレイヤー側パーティの強さの曲線とに分解して考える。すると俺屍では、家族内での世代交替に伴ってパーティの強さの曲線がギザギザになるので、敵の強さの曲線がゲート+階段状になっていることとあわさって、勝ち負けの刺激が高周波で提供されることになる。(参考:CRPGにおける最適化と確認

書いた人: 伊藤悠 (ITO Yu)
email: FZR02073---a---t---nifty.ne.jp
20011009 作成開始。「ゲームで人を殺す」「1増えて1減る」
20011206 「ゲームで人を殺す」に追記。
20020514 「人年を救え」を追記。
20030627 「家族の階段」を追記。
20050831 「早くクリアするように遊ぶ」を追記。