桝田省治コラム 没アイディア 倫理チェック 反省会
なぜ敵ボスのイベントがすべて家族ネタなのか?
家族ネタのゲームだから。なぜ戦闘に前列と後列があるか?
前列にいる親が後列にいる子を守るため。つまり、家族ネタのゲームだから。するとリンダキューブは男女が肩を並べて戦うゲーム? いや、四方を取り囲む敵に対して、互いに背後をあずけて戦うゲーム?
なぜ2ヵ月の訓練期間があるか?
親が子を教育するため。つまり、家族ネタのゲームだから。なぜ和風なのか?
俺屍の舞台は、企画の初期にはファンタジー世界だったという。だがテストプレイで名前を入力していて、「主人公『マスダ』の中世西欧風ファンタジー。それでいいのか。本当にそれでいいのか。人生の意味とは。愛ってなんだ。こんなこっちゃ駄目だ。ダメダメだ」と感じ至り、和風世界に転じたという。血縁集団、家族をテーマにすると、それの広がった地縁集団である地方や国から逃れえない。家族をテーマにしてコスモポリタンなゲームは作れない、ってわけか。
なぜ舞台がずっと京都なのか?
ファイナルファンタジーなどでは、主人公のレベルが上がるにつれて新たな地域へと進めるようになる、マップが拓けてゆくシステムが用いられている。新たな世界が広がってゆくのは快いことだ。これが「モンスターの壁」を打ち破ることへの報奨となっているわけさね。FF3の浮遊大陸を思い起こしたまえ、自分が這いずりまわっていた大地が空に浮かぶ一個の陸塊と知ったときの驚きを、そしてそこから抜け出して、ただの1パネルのビットマップで描かれたそれを見、眼下に広がる巨大な世界と比べて感じた解放感を。井の中の蛙だった俺様がこの飛空挺で何処へだって行けるさ。飛空挺を介したマップスケールの急激な拡大によるカタルシスはFinal Fantasyシリーズの定石と聞くが、これに類する技を俺屍が用いなかったのはなぜか?日本人の家族は定住する家族だから。親父もこの土地で死んだし、爺さんもこの土地で死んだし、俺もこの土地で死ぬだろうから。地元の名士名家として街を盛り立て、「この街は私の街だ」と言うから。
そのおかげで広大なワールドマップを作る労力も省けるぞ。
流浪する、旅する楽しさの逆にあるものは、迷宮に知悉していく楽しさだ。ウィザードリィ1は1つの迷宮とずっとつきあっていくゲームだった。プレイヤーは狂王の試練場を隅から隅までマッピングし、どこで何が狩れるか取れるか覚える。「この迷宮は俺の迷宮だ」。
がしかし、俺屍の迷宮はランダム配置だったり無限ループだったり、非直観的なつくりをしていて、マッピングの楽しさをかなり放棄している。rogue likeな、一階層づつ無分岐で進んでいく迷宮のほうを選んだわけだ。
一方、どこで何が狩り取れるかを知っていく楽しみは、鬼録などによって支援されている。
なぜ雑魚モンスターとのエンカウンターが確率でなく、マップ上での接触なのか?
雑魚を避けてボスのもとへ急げるようにするため。それによってボスとの戦闘という目標と、雑魚との戦闘という目標とを分離するため。なぜ走ると体力が減るか?
なぜ正月に計画を立てろなどと言われるか?
時間という資源を管理運営するゲームだから。計画は、思い通りにいっても、思わぬことが起きても、面白い。なぜ初代当主の名が受け継がれるか?
また、なぜ作戦提案や忠心や家出があるか?当主=プレイヤーにするため。プレイヤーが誰を操作しているのかを明確にするため。
だが僕は、この襲名システムは嫌いだ。当主の創作した必殺技に初代当主の名がつくのが著作人格権侵害で嫌だし、ふと当主の本名が思い出せなくて自己嫌悪に陥って嫌だ。
なぜ斜め移動をトルネコの大冒険式にR1+十字キーに割り当てなかったか?
なぜだ。なぜ奥義が伝授されるか?
並列主義のため。だがそのためには、奥義復活の条件に確率判定を入れるべきだったと思う。なぜ回復系・補助系の奥義がないか?
なぜクォータービューなのか?
左から右へ、下から上へ進むプレイヤーの性質、「走右上性」を利用するため。言い換えると、迷宮が直線的で逆行しないから。
なぜ時登りの笛は地獄巡りでやたらと取れるか?
ローグを食物無限所持にした場合、ウィザードリィライクRPGになる。つまり食物の獲得頻度を上げていくとだんだんウィザードリィライクになっていくのだといえる。俺屍はラストダンジョンで、「さて、ウィザードリィがしたければ、してもいいですよ。ここまででウィザードリィされたらゲーム壊れちゃってただろうけれど、もう最後なので大丈夫です」といっているわけだ。で、百八柱を全員救ったりアイテムコンプリートしたり、したい人はするわけだ。なぜゲームクリア後にデータセーブできないか?
なぜだ。無念。なぜ第一朱点打倒後バランスがきつくなるか?
RPGでは一般に、経験値・アイテム稼ぎの単位時間あたり効率は、上昇しつづけるものである。たとえ次レベルまでの必要経験値量の増加によってレベル上昇までの必要時間が増えている(実際に多くのゲームがそうしている)としてもだ。不思議なことに俺屍では中盤、第一朱点童子を倒した直後に、敵モンスターの強化(そして獲得戦勝点は変わらない)によって時間あたり効率が下がる。ここでこのゲームに挫折する人も多いらしい。なぜそんな仕様にしたのか?
雑に考えると、ゲームにおける困難とは、いったん乗り越えられさえすれば良い思い出になってしまう傾向があり(参照:初心あるかとらず島)、したがって乗り越えさせるだけの牽引力を十分もっている場合には、十分な困難を配置すべきである。それだけの自信があったか……
たとえば、必要経験値量の幅を操作して「ばれないように、こっそり」バランス調整したかったのだけれど、難易度4段階選択仕様してるためにレベルアップまわりをいじりにくかったから見切りをつけた、とか。違うか。
うーむ。なぜなんだろうか。
なぜリアルな遺伝システムではないか?
いろいろな理由が複合しているしいろいろな言い方ができると思うが、こう言ってみよう。すなわち、シビアな品種改良システムにしてしまうのを嫌ったためである。現実の遺伝システムというのは過酷なもので、世代を重ねて強くなるとしたら淘汰の結果である。望ましくない遺伝子が集中した個体を繁殖させないことで望ましい遺伝子の頻度を上げていくのが、現実の品種改良であり、獲得形質は遺伝しない。遺伝的な価値はその生物が生まれた時に決まり、以後変わらない。
だがわれわれ人間はそういう思想を嫌う。獲得形質が遺伝してほしいと願っている。というのも、知識や物品といった獲得物を継承していく(また子供を保護育成する)のが人間だからである。自分が自分の人生の中で努力して得たものを、自分の子供に遺していきたい(また子供を守り育て世話したい)のだ。現実の遺伝子はそういうものではない(人生の中で得たものではないし育てられない)ので、リアルでシビアな遺伝システムをそのままゲームにしてもわれわれは喜べないであろう。そのへんの困ったところは、俺屍は神様の側に押しつけて解決している。神様に序列があってもわれわれは不快じゃないので、強い神様と弱い神様を並べてしまい、それを通じて親のした努力が子供に継承される、つまりいわば獲得形質が遺伝していくようなシステムを実現している。
なお俺屍では、当然ながら知識(奥義)や金銭や物品(武器防具)を通じての努力の継承も行われている。