斜面

 恐いことが好きだった。といって、恐い話を見たり聞いたりするのはむしろ苦手で、自分で実際にするのが好きなのだった。ジェットコースターではない。スキーの上級者コース行きのリフトに乗るまで、そしてリフトを降り、踏み固められたコースの外、新雪の坂を見下ろしてためらう数秒間だ。恐い。自分は本当にそんなことをするのか。そうだ。するのだ。
 それが面白い。

 近所に焼肉のチェーン店がきた。肉はそんなに食べないが、付き合いで時々行く。ある晩一興にライスだけ単品で頼んだ。連れの二人は笑って見ている。ライスにはお代わりがきくので、話の種にと三回もらった。肉につけるたれが数種類置いてあるのをかけるとそれなりに食えるのである。元来味のわからない気味があるのでそれでいける。消費税込みで百八十九円、円当りカロリーではここが最強だな、などと笑った。

 しばらくして金のない日があった。その頃は夏休みで、部室で午前四時ごろまで遊んでから寝て十時頃起き、集中講義に行ってそれが六時頃終わる。朝飯は食べないし、昼飯も食べると寝てしまうので食べない。つまり部の友人と食べにいく夕飯だけだ。
 その日の財政は郵便の口座がマイナス二千円、財布には二百五十一円。古本屋で漫画を買い込んだ後、自転車のタイヤを替えたのが大きかった。大学の周りにある店では一食だいたい六百円。安くて四百円で、生協には二百円のカレーライスがあるのだが休み中は昼しかやっていない。
 だがアパートに帰って米を炊くまでの時間が嫌だった。腹が減っていた。ふと焼肉屋を思いついた。すぐ食えるし、量も申し分ない。
 だが一人で? 連れが何人か普通の注文をしている脇で食うのではない。それに単品ライスを断わられた時他のものを注文する余裕がない。やはり危険だ。同じ単品ライスにしても従業員が二人しかいない牛丼屋に行ったほうがいい。お代わりはないが、従業員の七、八人いる焼肉屋よりはるかに楽だ。こちらが一人なのか三人なのか、向こうが二人なのか七人なのかでは精神的質量の比が違う。注文する時だけでなく、お代わりをする際にも相当のプレッシャーがかかるだろう。
 やめろ。アパートへ帰るべきだ。本当にそんなことをするのか。
 そうだ。
 それが面白い。

 店は空いていた。座敷に上がり、文庫本を取り出して読む。バイトらしいウェイトレスが来た。一度聞き返されたが、ウェイトレスは行った。笑った。新雪の斜面を見下ろすときもこんな風に笑える。厨房で何か話しているのが聞こえる。もう一度本を読む。中年のウェイターが注文を確認しにきた。はい。ライス単品で。ウェイターは行った。本を読む。別のウェイターが持って来た。
 何もかけずに食べた。途中ではじめのウェイターが伝票を置いていった。しまった。もっと急いで食えばここでお代わりを頼めたのに。
 一杯目を食べおわって待った。ウェイトレスが通りかかったらお代わりを頼むのだ。客が少ないのでなかなか機会が来ない。本を読んだ。何度か話が盛り上がるところで状況を忘れた。
 読むのは速いつもりだが、百三十頁まで進んだ。まだ機会は来ない。もういいではないか。店を出ろ。しかし出来ない。四杯は諦めた。だがお代わりはしなくてはならない。お代わりをしないのならば牛丼屋に行くべきだったのだ。それに一杯のお代わりは理論上の無限への第一歩だ。待った。読み進んだ。
 ウェイターが通りかかった。呼び止めてお代わりを頼んだ。来た。たれをかけて食った。食いおわった。そして本を読んだ。百七十四頁まで進んだところで三杯目を諦めて席を立った。

 店を出ると風が涼しかった。自転車を漕いで部室に帰った。常連の野良猫が付いてきたので、キャットフードを少しやった。

解説

 皆さんはスキーはなさいますか? あれはいいものですよ。中学までは時々親に連れていってもらったものです。小学生の頃は視点が低いため全然怖くなく、「どんな斜面も転べば止まる。転び転び降りればよい」とばかりにきついコースへ突っ込んでいけるのですが、背が伸びるにつれ視点が高くなり恐怖心がでてきます。その恐怖を押さえ込みながら見下ろす上級者コースの急斜面が味わい深い。
 それに慣れたら、リフト下や斜面脇の新雪の部分、つまりコース外に挑戦してみましょう。新雪はすぐ足をとられて転んだり体が埋まってしまったりしますし、木にぶつかるなり雪崩を起こすなりする危険もあります。リフト下で転んで雪に埋まったりするとみっともないことはなはだしい。上をゆく方々に笑ってもらえます。

 さてライス単品のみですが、ここで斜面の角度に対応するものはその店の従業員数です。
 店の従業員が多ければ多いほど注文は困難なものになります。というのもメニューの注文とは客と店の従業員とが共通の世界をつくることだからです。
 従業員には従業員の世界、つまり「ライス単品のみを頼むのは、確かに駄目とは書いていないが普通ではない」という世界があります。そしてわれわれには「駄目とは書いていないのだからライス単品のみを頼んだっていいはずだ」という世界があるわけです。この二つの世界がぶつかり合い一つになるのがメニューの注文という場です。
 そこで従業員が少なくあなたに連れがいる場合、あなたの世界は従業員の世界よりも強力な現実感をもつことになるため注文は容易になります。
 逆に従業員が多くあなたが一人の場合、あなたの世界は従業員の世界に圧倒され、注文は困難になります。
 ですから初心者はまず連れを伴って小さく無粋な店に入り、笑いながら、いかにも洒落でやっている風を装ってライス単品を頼みましょう。牛丼屋なら卵の単品を加えて「最近肉が食えなくってさ」などと笑うのも効果的かと思われます。
 慣れてきたら一人で堅気の小洒落たファミリーレストランへ。後は何度繰り返せるか、あるいはお代わりできるかです。
 といっても、何回やった、何杯お代わりしたなどということについて、他人と自分を比べる必要はありません。自分にとってもうこれ以上は耐え難いという地点へどれだけ近づけるか、ということが問題なのです。
 自分を試し、常にその限界を押し拡げていく姿勢こそが重要なのです。位置より速度が、速度より加速度が大切です。

 どうですか? 一例に過ぎぬとはいえ要領はつかんでいただけたでしょうか。
 こうした行為は、別にやる必要はないがあえてやる、という点で面白みがでます。あなたも何かしら馬鹿なことを考え、それがいかに馬鹿なことか十分吟味し、そしてあえて実行してそんな自分を楽しんでみませんか。そこには新たな地平があるのです。


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