カチュア、デニム、プレイヤー、アシタカ

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愛していると言ってやる/パウエル姉弟の物語概略

 ヴァレリア島三民族を統一した覇王が子を残さずに死に、民族紛争が再燃する。主人公、被抑圧民族の少年デニム・パウエルは、解放を求めて戦ううち、三民族の平等融和をこころざすようになる。姉カチュアは、争いを離れ、二人で戦乱のない海外へ亡命しようと言うが、デニムは聞き入れない。カチュアは逆ギレして敵方である暗黒騎士団に参加する。中略。カチュアが前王の血を引く唯一の子供だったことが明らかになる。義姉の説得を試みるデニム、ここで選択肢。「僕は姉さんを愛している!」→カチュアが自部隊に参入、「僕は姉さんと離れたくない!」→カチュア自殺。さてその後最終的にラスボスを倒しました。

カチュアが生きている場合→カチュアがヴァレリア島女王に即位、「グッドエンド」。
カチュアが死んでいる場合→デニムがヴァレリア島の王に即位するも、戴冠式にて暗殺される。「バッドエンド」。

参考:ストーリーについての資料*st

二人で十分ですよ。わかってくださいよ/すれちがう愛憎の矢印

 まず、カチュアの話をする。カチュアは、二人幸福主義の人間である──
 親父が連行されちゃってガキ二人で生きてきて、「世間の冷たい風のこんちくしょう、そっちがその気ならこっちもこの気、あたし(達)は幸せになってやるわ見てろ」とか思ってたのにデニムが「皆が幸せになるために僕は犠牲になるよ」などと言い出してびっくり、取り残されて寂しいぞ泣くぞコラァ、てなもん? で、「世間かあたしか二択。ファイナルアンサー?」に世間と答えると身投げ。あんたと答えると女王。
 だけどそうなると女王になっても幸せじゃないのかもな。「いまさらお姫様だあ? 最初から言えっつーのよ。そしたら世界に愛され世界を愛する人間になれたかもね、あたしも。デニム一筋に確定しちゃってからそう来られても時既に遅し、あたしゃ皆にちやほやされても嬉しかなれねえ女なのよ、もはや。あーやってられねーたリィ」とか思ってるのかなあ──
 カチュアは世間を愛しておらず、むしろ憎んでいるとすら言える。ところが、それにもかかわらず、運が良かったりうまく立ち回ったりして、実際には世間に角を立てていない。解放軍時代・賞金首時代には神竜騎士団(本稿では便宜上デニムの部隊をこう呼ぶ)の回復役にすぎず、騎士団長デニムの脇にいて目立たなかった。騎士団脱退後は暗黒騎士団に参加するが、看板・客分・傀儡あつかいで表立ったことはしておらず、公式には「誘拐されていた」ことになって、けっきょくずっと表面に出ていない。「お前がゴリアテのカチュアか! 誰某の仇を討たせてもらう!」という台詞は一度たりとありえないのである。
 一方、デニムは、世間を愛しており、行動を起こしてそれを成功させ、世間を救う。で、実際に行動し戦っているので、各地で遺恨をつくっている。デニムを仇とつけねらう人物は枚挙する暇がない。だから、ヴァレリア島の人々が王として認めるのはカチュアであり、デニムは即位すると暗殺されるわけである。カチュアが即位した場合も、デニムは以後の民族融和策のうえでの禍種であり邪魔者であるので、ゼノビアへ渡海させられる。二人幸福主義のカチュアがヴァレリアの女王になって、民族融和主義者のデニムが島を追われるという、皮肉な落ちなのである。

カチュアについての余談:二人幸福主義と殺人狂時代*2h
デニムについての余談:敵意保存則*d1

忘れちゃったの、デニム? 知らねーよ/地元民と異邦人

 残念なことに、多くのプレイヤーがカチュアを身勝手でわがままな女として嫌う(たとえば28号工房内おひさしぶりの第4弾)。なぜだ。「あなたみたいに、我を通すだけの能無しじゃないのよ、私は。少しは感謝なさいよ。だとか「…姉さんのいうことがきけないのね。いいわ。…勝手にしなさい。だとかそりゃもうクハァ----ってハァハァするのちょと待て。考えてみよう。
 考えてみよう。むしろ、カチュアこそが正常な反応を示してはいないだろうか。いや、示している。被抑圧民族として自治区に強制収容され、同胞の過激派はテロに走り、ついには同族を虐殺してまで復讐をとげようとする。そんな不毛な憎悪の再生産は、もううんざりだ。こんな島は見捨てて、共に生きてきた弟と二人で、海の向こうのどこかへ逃げ出せばいいではないか? デニムの判断こそ異常なのだ。
 異常だって?
 その通り。
 それは、デニムがプレイヤーキャラクター(以下PC)だからである。
 デニムは、すなわちプレイヤーは、ゲーム開始時に、そしてけっきょく、シナリオすべてを読破したあとでさえ、ヴァレリア島の歴史を知らない。これまで繰り返された民族の争い、積み重なってきた人々の屍を知らない。阿鼻を見ず、叫喚を聞かない。過去の悲劇を知らず、それが生む憤りも憎しみも感じない。だから、三民族の融和などと言い出すし、僕は気づきました。本当の敵は他にいるってことを。父祖の代から続くウォルスタと、ガルガスタンの争いなんて、本当はないんですよ。いつの世でも、枢機卿や公爵のような権力を求める人々が、民族紛争を利用していただけなんです。憎むべき相手はガルガスタン人という民族ではなく、それを利用する一部の権力者なんです。などと言えるのだ。デニムはプレイヤーであり、他民族に恨みを抱いていないので、綺麗事を吐けるのである。デニムがプレイヤーでなければ、彼も作中に登場するほかの人物同様、民族にこだわり、たとえその怒りが権力者に利用されている面があるとしても、自分と同胞の受けてきた辛苦と汚辱を忘れはしないだろう。
 また、カチュアにとってデニムは、18年間共に生きてきた肉親だが、プレイヤーにとってカチュアはスーパーファミコンの電源を入れてはじめて出会った娘っ子の一人に過ぎず、システィーナやオリアスと同列に並ぶキャラクターである。だからプレイヤーからすれば、カチュアがかけてきた二択問題(カチュア||世間)は(゜Д゜)ハァ?であって、そもそも問題だとは認識できない。デニムの選択「僕は戦うよ」に、プレイヤーは疑問を抱かないのである。

余談:もう少し詳しく、デニムの異邦人性について*d3

四年後の世界/憎めない二民族とアシタカの気後

 ここで、唐突にもののけ姫の話をする。
 森に住む民族と町に住む民族とを相容れぬ対立関係に置いて争わせ、かつ、その両者のどちらをも悪役としては描かなかったのが、アニメ映画もののけ姫だったのではないか、と以前山犬狩猟民族説で述べた。
 以下この仮定の先に論を進めるが、さて、もののけ姫の主人公アシタカは、物語の冒頭で呪いをうけて、解呪の力を持つシシ神を訪ねて深い森におもむく。そこで争う二民族が登場するわけだが、それぞれの民族が魅力的で、納得できる動機を持っているさまが描かれる。そのためアシタカはどちらに味方すべきか悩むが、各方の代表者であるエボシ御前とサンとが異口に「お前は部外者だ。われわれの戦いに関わりはない、立ち去れ」と言う。さらに丁寧なことに、アシタカのうけた呪いはシシ神には解けないと宣言されて、命をながらえるにしろサンをめとるにしろ、アシタカが森の民の側で戦う理由も消されてしまう。
 斯くしてさっぱり動機を消されてしまったアシタカがおろおろしているうちに、大騒動が起こり、森の民が敗れ、退き逃れていって終わる話である。かなり無茶な概要なので実物を見られたい。
 そしてさらにこの概要を無理に概要すると、こうなる。利害対立する二つの集団があったとして、そのどちらもが人間であり、争うだけの理由があったに違いない。どちらの集団も人間なのだから、完全な善人だけでも、完全な悪人だけでもなかっただろう。そこに、その利害関係に絡まない人間が、そこの憎愛の歴史を経験してこなかった人間が、異邦人がやってきて、仲良くしようだのどっちが悪いだの、言えるものではない。言えるかってんだ。数百年前に生き、それぞれの利害のために争った人々を、監督にしろ観客にしろ、どっちが良いだの言えるもんじゃないぜ。アシタカは観客だ、君だ。どっちの側につくべきか、答えは出せないだろう? 決められないだろう?

余談:じゃあそんな映画撮るなよ*m1

異邦人性ときたか/力ある主人公、力なき主人公

 こうして、タクティクスオウガともののけ姫とで、つまりコンピューターゲームと映画とで、主人公に対する処理が違うことがわかる。デニムもアシタカも、プレイヤーであり観客であるがために、無知な異邦人なのだが、しかしデニムは異邦人ゆえの理想主義を吐いて民族を統合する。かたや、アシタカは自らの異邦人性に立ちすくんで選ぶことができず、せめて争闘の被害を減らそうとつくすにとどまる。

主人公ハ負ケナイ、主人公ハ悩マナイ/成長と時間認識による強さ

 ここまでの議論を認めていただいたうえで(ありがとう! ありがとうございます! ……えー、ゴホン)、なぜコンピューターゲームには力押しの大団円が可能か、と問うて、それに答えよう。コンピューターゲーム、正確にはコンピューターRPG、その形式によって、可能であり、むしろ必然なのである。コンピューターRPGの主たる形式が操作対象の成長にあることは、すでに多くの指摘がなされているし、以前ゲームにおける成長要素の歴史でも触れた。ゆえに操作対象は、プレイヤーの操作のおよぶあいだは、敗北することを許されない。さらに操作対象は、プレイヤーの操作のおよぶあいだは、迷い停滞し足踏みすることもできない。映画はおろおろする主人公を映して30分を過ごすが、コンピューターゲームのプレイヤーにとって、プレイヤーが悩んでいないでPCが悩んでいる時間はスキップボタンを連打しているために認識されないし、PCが悩んでいないでプレイヤーが悩んでいる時間はゲーム内時計が止まっているゆえに「なかったこと」になってしまい認識されないからだ。この仕組みによって、操作対象の物語は勝利の物語にならざるを得ない。というわけでコンピューターRPGの操作対象は、プレイヤーの操作のおよぶあいだは問題を解決しつづける、きわめて強く、力ある主人公なのである。

まあ何事もやってみないとね。核ミサイルのスイッチ押すとか?/要括

 というわけでまとめると、

まとまってないことが判明した。

脚注および余談/ここがまた楽しいんだ

その他の関連サイト

かいざーずどっぐはんが〜内タクティクスオウガ的戯言。 暗殺され萌えの一例。
OGRE NOT OFFICIAL FAN PAGE内昔のインタビュー[タクティクス] 電撃スーパーファミコン17号松野氏TOインタビュー。国際政治学、アニメーションバカ一代、想像させる方が好きだけど時代はドラマ性の掘り下げ、4章でまとまっちゃってごめんなさい、湾岸戦争・旧ユーゴスラビア・ボスニア。「多民族構成にすると攻略が楽」とあるが、そんなシステムあったっけ?
Cypress内AN OUTLINE OF TACTICS OGRE ヴァレリアの政治的状況概略。ヴァレリア島の人口:ガルガスタン人7割、バクラム人2割弱、ウォルスタ人1割弱。
Dischord of SOUL in the Unholy Cage内カチュア、デニム、プレイヤー、そして私 「そうだね姉さん、こんな腐った島なんかさっさと棄てて新天地で暮らそうよ。2人で(重要)。」カチュアラバーの実例。プレイヤーと世界。アラインメント考察。デニムがこんな奴なら、カチュアは幸せを掴めるのだが……
いちへいさんによるescape!.png カチュアトゥルーエンド。やはり「2人で。」がいい味出している。

ストーリーについての資料 [st]

りっち〜★ぶらっくもあ卿による会話データ集(第一級資料!)内グッドエンディング
5人タクティクスオウガ内バッドエンディング(りっち〜さんのところににないデータ)
サイベルの館内タクティクスオウガ-物語篇-(よくまとまっていて、わかりやすい粗筋)
なお、本論では無視しているが、バッドエンディングの一種としてごく稀にギルバルドエンディング*geが発生する。
また、バッドエンド前には解放軍のモラル低下描写が(会話データ集内第4章戦争の後始末)。どうやって任天堂チェックを突破したんだ?

敵意保存則 [d1]

 デニムの恨まれっぷりについて。まあ、あらためて挙げるまでもなく、デニムは戦闘のたびに人の恨みを買っているが、たとえば;
 第2章Cルートダムサ砦 嘆きのヴェルドレ(参考:公式裏エピソード内ダッザ&ヴェルドレ)「夫の仇死ねおやー!」
 その点をよくツッコんでいるのが崩壊後のガルガスタン軍を率いる騎士ザエボスである。第3章Cルートコリタニ城城内 騎士ザエボス「他人のために戦う? 人を殺しておいて、私利私欲のためじゃないからいいんだってのか。おめでてえな」
 ザエボスはバッドエンディングでデニムが暗殺される理由についても良い予言をしている。同じく第3章Cルートブリガンテス城城内 騎士ザエボス

貴様のように手を汚さず、きれいごとばかりを語り、美味しいところだけを盗む…。
汚い仕事は他人まかせで、理想や正義をちらつかせる…。それが貴様だ。
いずれ民衆は、公爵を見限り、貴様を支持するようになるだろう。
公爵より『汚れていない』からな。
しかし、それもつかの間だ。どうせ、貴様もそのうちに『汚れる』さ。
 プレイヤーは戦うつもりでいっぱい*d2なので、敵意を持つ相手に対して「勝って、倒してしまえばいいんだ」と考えがち。しかしそれは、勝利によって敵意が消えると思うワナ。戦死者には必ず遺族がいて、その遺族を殺せばまた係累がいて……そういうふうに、終わらない。
 デニムの目的が高邁なものだとしても、彼を仇と恨む人間は存在する。理屈では「戦いは無益だ、和平しよう」とわかるかもしれない。だが、家族が犯され殺された恨みは捨てられるものではない。だからパレスチナを攻める(そしてその逆)。そこらへんを指摘するのがザエぼんであり、バッドエンディングなのだ。じゃあ姉貴を傀儡に立てれば済むのか? という疑問はあるのだが……つまり姉貴は天皇?

救世、死、プレイヤー [d2]

 プレイヤーはSLGをはじめるとき、戦争して世界を救うつもり全開である。だって、だからやるんだし、当たり前でしょ。当然救うね。ガンコ救う。救いまくる。だから、「不正義の平和だろうと、正義の戦争より余程ましだ落ち着いたばかりなのに、また戦争を起こそうっていうのね、あなたは)」というカチュアの指摘は、認識できない。あるいは「戦争なんて行ったら一定確率で死ぬんだぜ? 死んだら命がなくなるんだぜ? よそうややめようや(この世に血を分けた肉親はあなただけ。たった二人しかいない姉弟なのよ。死なせたくない)」も、右から入って左耳にスルーである。大丈夫だよ姉さん。僕は死なない。だって俺、死なないもんな。
 カチュアの言うことはまっとうなのだが、プレイヤーには届かず、「なんかよくわからんが嫌なこと言ってる」という印象を残して通り過ぎていく。
 僕はデニムをツッコミ対象としてみている。「プレイヤーキャラクターだからな、どっかおかしいに違いない」と、粗捜しするつもりでいる。否定的マインドセット。先入観ですな。
 変な奴デニム。

もう少し詳しく、デニムの異邦人性 [d3]

 デニムはウォルスタ人として虐待されてきたはずだし、父を誘拐されている。それが「父祖の代からの対立なんて本当はないんだ。悪いのはブランタとか一部の人間だ」とかスルっと言い出すのが変だ。権力者だけが悪いという視点は、ヒトラーだけを憎んでナチス党員・独国防軍人・独国民を恨まないユダヤ人みたいで、不自然だ。家を追われ、収容所に入れられた人間が、そんなこと言うか? あいつ、本当に地元民なのか?
 しかし、プレイヤーには家を追われ収容所に入れられた経験はないので、こうした発言に違和感がなく、むしろデニムが「おのれバクラム」とか言い出したら違和感を抱くだろう。言いかえると、デニムって、ヴァレリア島のあそこまでの歴史の蓄積の上に立ってる人間とは思えない。あいつにはこれまでウォルスタ人が舐めてきた屈辱の歴史がわかってるのか? たぶんわかってない(設定上はわかってるけど)。そこがデニムの、プレイヤーキャラクターの異邦人性だ。

 異邦人性を別の言葉で言うと……ゲームプレイヤーや映画観客の感情のデフォルトは「全員を救ってやる。お前ら! 仲良くしてください!」である。悪いのはこいつ! というふうに悪者が示されなければ、一方の集団に肩入れすることはない。事情もよく知らずに他人の喧嘩の仲裁に入る余所者だ(しかもゲームの場合、ものすごく力があって世界の命運を変えられるほど強い)。
 しかし、ヴァイス、レオナール、バッドエンディングの暗殺者、サン、モロ、エボシ御前は地元民であり、互いを恨み、あるいは利害対立している。やつらは夫や恋人を殺され、生きる場所を奪い奪われしている当事者なので、そもそも戦争をはじめたブランタが悪いとか、戦争というものはそういうものだから民族や個人を恨んでもしかたがないとか、言ってられない。戦争はそういう言ってられない人間を生むのだ、と(勝った勝っためでたしなハッピーエンドで済まさずに)語ってしまうところがタクティクスオウガの凄みの一つだ。

じゃあシスティーナは?

 民族単位での利害を越えて……とか言い出すのはまずシスティーナである(第1章美しきゲリラ戦士。ここはヴァイスとレオナールの立場もはっきりして面白い場面)。というわけで、システィーナも「変な奴」リストに追加〜(心の中で)。あるいは、ブルジョワに若い理想主義者といった役回りなのかな。

反デニム政権勢力

 バッドエンディングに登場する、ウォルスタ国民戦線、バーナムの虎、そしてデニムを撃つテロリスト。彼らについて考えてみよう。
 国民戦線。つまり国民意識があって、ヴァレリア南部を独立国にしようという、ウォルスタ解放軍・ウォルスタ系住民に基盤を置く組織か。デニム政権と取引できるだけの勢力があるわけだ。
 険しいバーナム山脈に跋扈する虎……山地はジャングルと並んで、ゲリラ戦略の故郷。アフガニスタンか。するとローディスがスティンガー対空ミサイルを供与してたりするのかな。はっ! てことは、デニムを撃つあの銃はローディスが供与したのか? ……と思ったが、レンドル登場時の会話ウォーレンレポート「その他」第4章内「沈没船ラムゼン号の引き上げ」からすると見込薄(ローディスにとっても銃は未知強力な技術)で、出所は謎気味。南方バルバウダ大陸では既にメジャーな技術なのか、それとも珍品なのか?
 国民戦線との和解を論じてるのは戴冠式直前だから、国民戦線メンバーが戴冠式に招待されててあのテロリストがその中の一人、とは考えられない。こっそり忍び込んだか、あるいは思想的に近い、というのはアリかな。セリエ・システィーナの警備体制が不備だとも言えるが、暗殺用の武器として銃を想定してなかったのかも。新しい武器だし。
 デニム軍の中核はウォルスタ兵なのに、奴は実はバクラム人だからなあ。ウォルスタ解放軍の古兵なんかからすれば「ガルガスタン・バクラムから受けた陵辱を復讐するために戦ってきて(そして戦友は死んできて)、そしてやっと勝ったのに、三民族共和とか言い出すなんて、勝利と死を汚し、かつ売り渡す行為だ。あのなんちゃってウォルスタ人デニムめが」といったところか……そんな感じであのテロリストはデニムを撃つのではなかろうか。

グッドエンディングでのデニムの渡海

 考えてみると、デニムはゼノビアに、カチュア政権への支援を要請しにいくわけか……

二人幸福主義と殺人狂時代 [2h]

 カチュアの行動は、二人で幸福になろうという意図のもとに行われる大胆無茶な荒技である。一方、公爵やレオナールやブランタやバルバトス枢機卿の行動は、自分の民族で幸福になろうという意図のもとに行われる大胆無茶な荒技である。そしてデニムの行動は、全民族で幸福になろうという意図のもとに行われる大胆無茶な荒技である。
 カチュアのレオナール刺殺っぷりはGPMの原さんにさきがけて怖萌えるが、そのレオやんだって公爵殺すのデニム殺す(未遂)の、しているわけである。あの話にでてくる男連中は皆、その程度の非道な行動力および神経を備えている。そして彼等の行動はそれなりに納得できる。非道なわりにはあまり効果を挙げずに、むしろ裏目に出たりもしている(Lルートのバルマムッサ虐殺の効果など)が、そうした愚かさもわからんではない。カチュアと男連中とは、スケールは違うが、大胆無茶っぷりについては大差がないと言える。
 むしろカチュアはせいぜい数人しか殺さないので、人数で数えれば非道さは低い。百人数千人を殺そうという公爵やレオナールより嫌われるのは、逆説的で面白い。チャップリンの言う「一人を殺せば犯罪だが、一万人を殺せば英雄だ」というやつかしらん? いや、人数の話でもないか。暗殺者・革命家たるセリエ(参照:会話データ集内、公爵暗殺計画システィーナ版カチュア版)が嫌われてるわけでもないからな。志の問題か。天下国家のための殺人はOK、個人レベルの幸福のための殺人はNGと、そういうわけか。

カチュアの非道さについての参考ページ:
web.archive.org(便利! すげえ)で再発見した旧ozweb内バックナンバー3。カチュアの刃物の扱いについて、ミニコラムNo.9を見よ。
 デニムは、世間に恨まれようとも世間を救おうと決意した人間だ。それは失敗するかもしれないが、しかし、やってみようと奴は思った。
 カチュアは、「そんなことしたって、けっきょく人を殺して、その人の遺族に恨まれるってことでしょ? 自分の殺す人間の数の方が、ほうっておいた場合の死者の数より少ないだろうなんて、確かに言える? 二人で逃げれば少なくとも二人は幸福(幸福指数+2。プラスはゼロよりも確実に大きい)じゃないの」と言う。

萌え語り

 カチュア萌えは「嫌な女萌え」の一種であろうか(→少女革命ウテナのアンシー)。他人の行動をシニカルな視点から、他人事のように論評する(そいつが直接口に出して論評する場合もあるし、そのキャラクターの存在・行動が他のキャラクターたちの性質を照らし出す場合もある)解説者的キャラクター。ファーストガンダムにおけるカイ・シデンが娘っ子だったら? といった感じ。
 別の言い方をすると……カチュアって、他の登場人物とはかなり違ったところにいる。システィーナの理想主義や、迷いのないプロ革命家セリエ、立派な大人のランスロット・ハミルトン、レオナールの民族主義、などなど、タクティクスオウガには多様なキャラクターが出てくるのだが、かれらの性質を2軸3軸4軸とパラメーターをとってn次元空間に並べると、カチュアの点だけ離れた位置に置かれる。それらの点をつないで立体にするとして、カチュアのおかげで体積が増えるわけで……
 などと自分の好愛感情を分析して理由づけする「萌え語り」こそ萌えを構成する要であろう。僕がカチュアを好きなのも、ルックスと第一声の「おべっかを使っているんじゃない」が主であって、細かい点まで本性を推測したうえで好きになったのではない。その後、僕は記憶を中和・改竄した。カチュアを肯定するように物語を解釈した。そもそもこの「カチュア・デニム・プレイヤー・アシタカ」が、自分がよりカチュアを好きになるために書いた文章だと言えるから、今しもまさに物語を(カチュアを好きになるために)再解釈しているところだ。
 これはたぶん、同人誌などでオリジナルな外伝・ショートストーリーを書くのと一緒であり、そういうオーバーリーディングこそ誉なるべし*or

オーバーリーディング [or]

 本論のような事柄を、原作者松野泰己氏はもしかすると考えていないかもしれない。いや、9割9分9厘考えてるけど。
 しかし千が一、考えていなかったとしたら?
 それを言ったらおしまい、というより、
 そんなこと言わなくていい! (大声で)
 ……作者が考えていなくとも、われわれ鑑賞者は深読みし、オーバーリーディングし、妄想していいのだ。作者に特別な発言権があるわけではない。
鑑:「これこれこうだと思うんですよね」
作:「んー、僕はそこまで考えて作ったわけではなくて」
とか言われたって、そこで鑑賞者が恐縮する必要はない。根拠を示せればそっちの解釈が強いのだ。作者は後づけの設定を持ち出せたりするので、そういう後出しができるぶん強いが、「考えてない」のならば後出しナシなので、むしろ根拠を示せる鑑賞者のほうが強い。
 たとえば、松野氏が、現実の民族紛争を参考にしてタクティクスオウガを作るとしよう。そうしたら、タクティクスオウガのイベントは現実の民族紛争に似る。そうしたらタクティクスオウガの
イベントA'→イベントB'
を作ったとき、松野氏はそれらの間に関係がないと考えたかもしれないが、実は現実世界の
事件A→事件B
には関係があったのかもしれない。そして、鑑賞者がそれを指摘できるかもしれない。

ギルバルドエンディングについて [ge]

 ギルバルドエンディングは、バッドエンディングにおいて「民族別カオスフレーム」特定3値が30以上だった場合(稀)に発生する。戴冠式描写がなくなり、デニムが暗殺されず、ローディス教国によるヴァレリア侵攻が示唆されて終わる。

ギルバルドエンディングについての参考ページ:
今はもうないinfoweb/~fwkp3986内タクティクスオウガ ギルバルドエンド(イベントシーン書き下し)
オウガ・オーグ内ギルバルドエンディングの出し方(詳しい発生条件。民族別カオスフレームの処理・描写に注目のこと。面白い)
くろねこ屋内エンディング解析(エンディング分岐について、わかりやすい概略)

じゃあそんな映画撮るなよ [m1]

 もののけ姫がそういう、「過去の世界には過去の人々の事情があった、その事情に対して現代のわれわれは非当事者であってどちらの味方にもつけない」という映画だったとして──じゃあそんな映画撮るなよ。と思いもする。
 映画は100年前を描こうが100年後を描こうが、現代の問題を描いてしまうものだ。サムライを描けば、サムライの死生観を論破して「フー! 命は大切だぞ!」な、自律した個人の生命賛歌映画になるんだ。名家の子女を描けば、その家から、また男性への依存からの独立を描くことになるんだ。アンドロイドのいるSFを描けば、酷使され殺されていく被差別階級の人間を描くことになるんだ。
 宮崎駿、森か街か、南か北か、どっちかに付け。あなたもわれわれも現代に生きてるんだ。ぜんぜん当事者なんだ。ていうか、森と南につけ。
 もっとも、こういう二分法はモデルとして雑で危険だし、どっちにもつけなくて困るという話づくりも一応はアリか……なあ。

謝辞御礼

 4割方はメイさんとのメールのやりとりから出てきた話です。メイさん、ありがとうございます。


更新履歴
20020228 作成。
20020418 余談など加筆。

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