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なにかの感想として、飽きた、というのは、最もしょうもないものの一つに入る。なぜなら、飽きる前は許容範囲内であったのだから、その対象作品には何らかの普遍性をもった見所があり、そいつがそれに個人的に飽きているにすぎない*1からである。つまり、面白い見所があることを認めたうえで、それを無視して語る、ということであり、わざわざつまらないように語っているのだから当然つまらないわけで、アホかと。バカかと。
あるいはこうも言える。飽きた、という感想は、そいつがある数量の作品を観てきた履歴に依って生じるが、それ以外の情報を含んでいない。そいつの鑑賞作品名リストを読まされているにひとしい。したがって、主観性(そいつの過去の体験)と客観性(古典作品という公共物)とが最高につまらない組み合わさり方をしている。
話題の発展性が0どころかマイナスなので、近寄らないが吉である。
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2001/10/03/01cからの続き。
「過ぎない」「だけ」について、再び。
素直に考えた場合、「〜に過ぎない」「〜なだけ」という形容があてはまる事象はこの世にほとんどないはずだ。ある範囲を出ないもの、それ以外の意味をもたないもの、などそうそうない。ものごとには常に、別の視点があり、別の意味があるはずだ。単に〜なだけ、などという形容は、そうした別の考え方を捨てる勿体無い形容だ。思考停止よくない。もっと考えるか、せめて保留にすべきだ。
実際には「に過ぎない」は、何かの形容をしつつそれをけなす、述語句で否定的雰囲気を醸しつつ次の文へつなぐ、という役割をしているわけだ。その役割と、素直に字面を解釈したときの意味とが一致していないところに、問題がある。
といって、「に過ぎない」「なだけ」を使わないとなると、代わりに何を使えばいいのか困る。これは本当に困っているので、困ったものだ。
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