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1999、2000、2001の「かっこいい数字の3年間」も過ぎ去り、みなさまいかがお過ごしでしょうか。小生、例年ですと実家で寝正月をきめこむのですが、今年は浜松に残ってみました。しかし、実家に帰るとなぜああも眠れるんでしょうな。眠って眠って、眠って眠って、眠れますが、たぶんあれは体が油断しているのでしょう。浜松や水戸のアパートも自宅ではあるのですが、どこかで体が気を許していないのですな。匂いとか、生活雑音とかが、寝ている間もチェックされていて、18年間過ごしてきた本来の縄張りでは安全係数が高くなるってわけだ。なかなか高性能ですが、まあ、それくらいのことはやってもらわなくちゃ、設計に40億年かかった機械とはいえません。よくやった、だが、まだまだこれからだ。
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SSS。寒すぎて死ぬ。
雲度50%、低い雲が次々と東に流れていく。日が照っているのに細かく雪が降って風が風が、手が顔が足が凍える。責任者は誰だ、畜生。
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闇黒日記の2001年12月31日。
たとえば闇夜の梅ですが、
鳶「それは何(ど)うもお忙がしい処をお呼び立て申して済みませんね、粂どん実は斯(こ)ういう話だ、今朝ねお内儀さんから私へお人だ、何だろうと思って直(すぐ)に出掛けてってお目にかゝると、奥の六畳へ通して長々と昔噺が始まったんだ、鳶頭お前がまだ年の行(ゆ)かねえ時分から当家(うち)へ出入(でいり)をするねと仰しゃるから、左様でござえます、長(なげ)え間色々お世話になりますんで、なに其様(そん)な事は何うでも宜(い)いが、旦那が死んで今年で四年になるし、私も段々年を取るし、お梅ももう十七になる、来年は歳廻りが良(い)いから何様(どん)な者でも聟を取ったらよかろうと話をすると、いつでも娘が厭(いや)がる、他人様(ひとさま)から、斯ういう良(よ)い聟がありますと申込んでも厭がるもんだから、他人(ひと)が色々な事を云って困る、妙齢(としごろ)の娘が聟を取るのを厭がるには、何か理由(わけ)があるんだろう、なにそれは店の手代に粂之助という好(い)い男があるから事に依(よ)ったらあの好い男と仔細(わけ)でもありはしないか、と云いもしまいが、ひょっとして其様なことを云われた日には、世間の口にゃア戸が閉(た)てられねえ、ねえ鳶頭、と斯うお内儀さんがいうのだ、してみると何かお前さんとお嬢さまとあやしい情交(なか)にでもなっているように私(わし)の耳には聞えるんだ、宜(よ)うがすかい、それから、誠に何うもそれは御心配なことでというと、お内儀さんの仰しゃるには、粂之助も小さい時分から長く勤めて居たから、能(よ)く気心も知れて居るが、何分今直(すぐ)に何(ど)う斯(こ)うという訳にも往(ゆ)かず、捨(すて)て置いて失策(しくじり)でも出来るといけねえから、一と先(ま)ず谷中(やなか)の兄(あに)さんの方へ連れて行って、時節を待ったら宜かろう、其の中(うち)にはまた出入をさせる事もあるじゃアねえか、と斯う仰しゃるのだ、うむ、それから、なんだ斯ういう事も云った、何分宅(うち)の奉公人や何かの口がうるせえから、一時(いちじ)そういう事にするんだが、仮令(たとえ)他人(ひと)が何(なん)といおうと、私の為にはたった一人の娘だから、同じ取るなら娘の気に入った聟を取って、初孫(ういまご)の顔を見たいと云うのが親の情合(じょうあい)じゃアねえか、娘が強(た)って彼(あれ)でなければならないといえば、私には気に入らんでも、娘の好いた聟を取って其の若夫婦に私は死水(しにみず)を取って貰う気だが、鳶頭何うだろう、と仰しゃるのだ、お内儀さんの思召(おぼしめし)では、一時お前(めえ)さんに暇を出して、世間でぐず/\いわねえようにしちまって、それから良い里を拵えて、ずうっと表向きお前(まえ)さんを聟にして、死水を取って貰おうてえお心持があるんだから、粂どん早まっちゃアいけねえよ、宜うがすか、お内儀さんには、色々深(ふけ)え思召があるんだから、私(わっし)も大旦那のお若(わけ)え時分、まだ糸鬢奴(いとびんやっこ)の時分から、甲州屋のお店へ出入りをしてえて、お前(めえ)さんとも古い馴染だが、今度来やアがった番頭ね、彼奴(あいつ)が悪い奴なんだ、いろ/\胡麻を摺(す)りやアがって仕様がねえからお内儀さんも心配をしていらっしゃるんだが、ねえ粂どん」これはおかしな日本語の文章です。落語家が、この文章、特定の発音、特定の表情、特定の身振りの4者を結合させると、楽しく面白い作品になります。
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必然的な関係は、ないのですね。では、背綴じやにかわづけがしっかりしていて、外箱の図案に凝っている本を作ったり、背綴じやにかわづけがしっかりしていて、外箱の図案に凝っていない本を作ったりすればいいと思います。
さう云ふ話ではないのですが。そうですね。失礼しました。
全体が有機的に結合し、一体となり、組織が過不足なく装備され何一つ切り捨ても追加もできぬ、それぞれの要素がお互いに大きく依存しあっていてどれを欠いても成立しえぬ作品。それはいいものです。それは再利用性と互換性を欠きます。一方、ストーリー単体に非常な魅力があって、SFXやカメラワークや音響演出などは他のものでも代替可能な作品などというものもあって、それはそれでいいものです。これは、再利用性と互換性をもちます。ここでの「再利用性と互換性」とは、作品を構成する部品のひとつひとつがそれぞれ単独でも高い性能を持っていて、それを抜き出して別の部品と組み合わせたときも有効に働くことです。いくつかの部品を失っても、残りの部分が性能を保つことです。他の作品への応用がきくことです。
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文章がフォントに依存する、とは、特定のフォントでその文章を装飾すると面白くなるが、そうでない場合はつまらない、ということです。
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「文章と云ふメソッドが、フォントと云ふメソッドの上に構築される」ということを、もう少し詳しく説明していただけないでしょうか。
伊藤さんの注目するのは、既に「面白いもの」として成立した、結果としての作品だけです。伊藤さんにとつて、理論や理念は、「面白い」と言張るのに必要な、辻褄合はせ の爲のものに過ぎません。僕はA_PROMPTが面白いと主張するためにこれまで理屈をこねていたわけではないのです。そうではなくて、フォントを弄るためにHTML文法を犠牲にするトレードオフが成立する、と主張するために、こうだああだ書いてきたのです。A_PROMPTの面白さは、その結論のための前提です。
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煙草の副流煙は健康に悪い。だから、近くで吸わないでほしい。これは成り立ちます。
外箱の図案的効果に凝ると背綴じやにかわづけの強度が弱くなる。だから、外箱の図案的効果に凝らないでほしい。これも前提が正しければ成り立ちます。ですが、前提は正しくありません。
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いや、野嵜さんの考える理想的な芸術作品、を推測してはいません。今聞くか。野嵜さんは、理想の芸術作品とはどんなものだと考えていますか?
「全体が有機的に結合し」、統合された傑作は、イデア的な存在であり、さう云ふ具體的な存在ではありません。これも詳しく説明してもらえないでしょうか。それは、どんなものですか。
伊藤さんは、「再利用性と互換性」で、その「価値」を説明します。ああ、これは、違います。純愛物語というストーリーには価値がある。その価値には再利用性と互換性がある。のです。
あら、いや、そういう意味ではないのです。そうじゃなくてですね、野嵜さんの文章にA_PROMPT調のフォントをつけても、その面白さが増さないだろう、あるいは減じるだろう、という意味です。野嵜さんの文章や懐かしの中学国語教科書にA_PROMPT調のフォント装飾を施してもつまらないだろうとは、野嵜の文章は教科書と同樣、もともと詰らない文章である、と伊藤さんは言ひたいのでせうが、別に具體的に私の文章の善し惡しを言ふ事もあるまい。
結局のところ、伊藤さんがメソッドにこだはり、表現の手段にこだはるのに對して、私は飽くまでコンテンツが大事だ、と主張してゐるのであります。そうですね。
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2002/04/09/01aへ続く。
微妙にオヤジギャグか? というあたりを狙ってみましたが、アウトでしょうか。
冬コミケで茂内さんのインタらに寄稿したICOマンセーの巻。
ICOは一様に暗いか、一様に淡く明るい。色鮮やかに興味を引く細かなオブジェクトが少ない。カメラが遠い。天井が高い。よって酔いにくい。→比較対象:MYST3。
テクスチャパターンが少なくて負担が軽い。きれいな霧がある。カメラ位置が既定。よってポリゴン欠けしない。
パッケージ表は、キリコの絵みたいでやや怖い。ミヒャエル・エンデの世界みたいなふりをしたらよかったのでは。発売初週17000本ってのは大丈夫なのかな?
と言ったら赤尾晃一先生は「大丈夫ではない」とのこと。茂内さんと3人でダベる。茂内さんが修論がらみで「送り手がコンピューターゲームだとして売り、受け手がコンピューターゲームだとして受けるものが、コンピューターゲームである」という定義しかないのかなあ、とか言っていたので「弱い、弱いッスよ。そんなこと言ってたらこの空気だってメディアと言いうることになっちまいますよ」と言ったら先生曰く「いや今のメディア論ではまさにそういうこと言う人らもいる」だそうで、なんてこった。ありなのか、そんなの。
ICO話に戻って、どうせなら、字幕がぜんぶパンツァードラグーン語*1でもよかったかも。「剣を」とかもわからなくてもいい。おかん*2の言葉がわかるけれど、その必要は薄いと思うし、「イデクゥ、イデクゥ」で「ああ、ここ見ろって言ってるんだな」というコミュニケーションが楽しいのだし。
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島・城から外の世界を眺めるときは、「ああ、ねーやんとふたりであの向こう側の大地に行って自由になったるで」と思うのだ。城に閉じ込められてるぶん、あの東と西とにある台地(それぞれビーム発射装置のあるところ)に出たときの開放感と、彼岸の広大さが引き立つわけで。しかし、脱出してからの最後の部分で、自分は崖と海とに囲まれた砂浜を左に進んでってエンディングだ。これ、自由な大地じゃねーよここって思って残念だが、考えてみると他のやりくちはない。そもそも、ゲームプレイヤーの自由と物語の終結とは相容れがたい……かな? でもなくて、うまく処理できるものなのかも。
ん、そうか。まず崖と海で挟んでねーやんに接触するまで確定させる。で、そこから崖を登って大地へ。大地はある程度進むと鉄拳的無限・ランダム生成マップに陥る。そこでは3方に進んでも地形がランダムに生成されてどこまでも続くだけ(ただし移動距離は記憶されていて、手前方向へ戻ってくると崖に着く)。この無限空間の入口に来たとき、ねーやんが手を振り切って100mくらい進むイベントを起こす。で、あとは、ねーやんと手をつないだら終了、ホワイトアウトでもさせてエンディングへ。手をつながないかぎり、無限空間を好きなだけ徘徊できる(声で呼んでついてこさせることで、ねーやんと一緒に探索することもできる)。徘徊してもほぼ意味はないが、自由ではあろう。
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